白い湯気の向こう

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白い湯気の向こう

 昼食のピーク時を過ぎた、通い慣れた蕎麦屋は、いつになく空いていた。 「靴、脱ぎたくないし、椅子席にするか」  外とは違う、店内の暖かい空気に頬を少しだけ緩めた槙野の言葉に、異存は無いと頷く。 「天ざるを、大盛りで」 「俺は、月見で」  食欲が無いという言葉に嘘は無いのだろう、普段なら付け加える『大盛り』という言葉を言わない槙野の注文に、小さく口の端を上げる。  その槙野の後ろには、この街の南側の風景だという蕎麦畑の大きな写真が飾られていた。  この景色は、本物だろうか? 『東京』という場所にはそぐわない白い花に、何度目かの疑問が脳裏を過る。一年は、あまりにも短い。折角『東京』に暮らすことになったのに、東京っぽい場所には、どこにも行けていない。ましてや、『東京』と言って良いのかどうか分からない場所には。 「榊は、どうするんだ?」  小さく息を吐いた耳に、いつになく慎重な牧野の声が響く。おそらく、四月になっても常勤の研究職に就けなかった場合のことを尋ねているのだろう。 「実家に帰って、高校の非常勤をしながら教員採用試験を受けるさ」  何故か目を伏せている槙野に、軽く答える。数学の教員免許は持っている。元々、博士号を取った後すぐ研究所に採用されなければ、倍率は研究職とどっこいどっこいである高校の教員を目指す予定だった。だが、槙野と遠藤は、理学部出身の自分とは違う。自分のように、そこまでお気楽な気持ちにはなれない、と思う。 「実は、常勤の内定をもらった」  突然の槙野の告白に、全てが一瞬だけ、止まる。 「研究職か?」 「ああ」 「任期は?」 「無し」 「好条件じゃないか」  喜ばしいことのはずなのに、槙野は、目を伏せたまま。丁度良く目の前に現れた月見蕎麦の湯気で、牧野の表情はあっという間に見えなくなった。  腕を伸ばし、掴んだ割り箸を割る。歪に割れた割り箸で挟んだ蕎麦は、つるりと、箸の脇を滑った。不器用は、生まれつき。 「ごめん」  湯気の向こうで、槙野の頭が揺れる。 「遠藤には、言えなくて」 「別に」  無口なのも、生まれつきだ。言葉の代わりに、テーブルの脇に置かれていた伝票を、力無くテーブルに佇んでいる槙野の左腕に置く。 「就職祝いに、これ、払ってくれ」 「え?」  普段通りに戻った槙野の表情に、息を吐く代わりに天ぷらに箸を伸ばす。 「就職できたら、奢る」 「分かった」  その言葉を最後に、会話は途切れる。  蕎麦を啜る音だけが、ずっと、耳に響いていた。
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