月光絵巻

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 月が跳んだ。  そう見えたのは、自分が頭のてっぺんからひっくり返ったからだ。丸い穴のような月は依然として同じ位置に浮かんでいるし、夜空には星一つ浮かんでいない。  まるでそれは自分の人生を映した生涯画のようだとハンスは思いながら、放り投げようとしていた絵筆を握り締めていた。  ああ、また自分を不幸にしたものを捨てられなかったとハンスは思う。生涯画なんてものを描きだした自分自身が馬鹿だったと思いながらも、ハンスは投げようとしていた筆を自分の眼前へと持ってきていた。  筆には夜色の絵の具がべっとりとついている。ハンスが起き上がると、同じく夜色にそまったキャンパスが腐葉土の積もった地面に落ちていた。周囲はハンスを取り囲むように、巨大なトネリコの樹木が生え、まるで彼を誘うように細い枝を風にゆらしているのだ。  妖精の王が住むというこの森で、ハンスはとある女性の依頼を受け生涯画を描こうとしていた。  生涯画とは、その名の通り人々のの生涯を主題にした絵だ。生涯画は死にゆく人が人生で一番、幸福だったときを主題として描かれることが多いい。  母親だった女性は子を産んだその瞬間を。父だったものは、子を抱くその瞬間を。夫と死別した寡婦は、その夫と結婚した瞬間を。当時の記憶を思い出しながら絵師に話し描いてもらうのだ。  それは遺影の代わりとしてこの地方では扱われ、故人を偲ぶものとして遺族の家に飾られる。ハンスはその生涯画を描く絵師だった。  たいていの場合、生涯画は死期の近い人々の親族が絵師に依頼し、絵の依頼主となる人から話を聞きながら仕上げる場合が多いい。  その点において、今回の依頼は奇妙なものだった。依頼主だった女性は、若い頃に夫と離れ離れになり、自力で息子を育ててきたのだ。  そんな夫の眠る場所で、彼女は自分が亡くなったあと、絵を仕上げて欲しいと遺言を残した。その彼女の依頼を受けて、ハンスは森で絵を描いている。描いていたのだが、不意に依頼をこなすのが嫌になって、腐葉土の地面に寝そべっていたのだ。 「生きてる息子じゃなくて、死んだ夫のために絵を森に飾って欲しいとか馬鹿じゃないのか?」  ハンスの心中には、依頼主への怒りが渦巻いていた。職業柄、泣きながら危篤状態の依頼主を取り囲む親族をハンスは幾度となく見てきた。彼女の息子もそんな親族と同様、死にかけている彼女を見て大粒の涙を流していたのだ。  なのに彼女ときたら、ハンスに向かって死んだ夫のために絵を残して欲しいと言い放った。 「おや、美しい夜色ですね」  そんなハンスに声をかけるものがある。驚いて起き上がると、キャンバスに描かれた夜色をまじまじと眺めている男性がいた。背の高い、なかなか顔つきの整った男だ。そんな顔に嵌った夜色の眼が、不思議とハンスを惹きつけた。 「この森にお住みで?」 「ええ、この森の主と人々は私のことを呼んでおります。散歩にやって来た妻を迎えに来たのですが、どこにもいなくて……」  纏っていた緑色の外套を翻して、男はハンスに微笑む。その微笑みを見て、こいつはこの世のものではないとハンスは思った。この場所は、狩人でさえ行くことを躊躇う、妖精たちの憩いの場と言われているからだ。  その憩いの場に遊びに行った少女が、何百年も戻ってこなかった言い伝えをハンスは母から聞かされて育った。何でも妖精たちの世界と人間の世界とでは時間の流れが違うらしい。家族恋しさに人間の世界に少女が戻って来たとき、人間の世界では数百年の時が経過していたという。  幸い少女の腹の中には、妖精の夫との間にもうけた息子がいたため、独りぼっちにならずにすんだのだが。 「私が何を描いているのか、見ていきますか?」 「おや、よろしいのですか?」  男に興味がわいたハンスは、男に微笑んでいた。ハンスの微笑みを見て、男は夜色の眼を輝かせる。男のそんな眼を眩しいと感じながら、ハンスはキャンバスの上に絵筆を乗せていた。  夜色の絵具に隠れた下絵を、ハンスは細い絵筆でなぞっていく。黄色い絵の具で縁取られた女性の下絵に、ハンスは様々な絵の具を乗せていき、彼女に色をつけていくのだ。そんなハンスの作業を、男は熱心に見つめている。ハンスの筆が動き、女性の唇に赤い色彩が加わると、男の眼はまるで満月のように美しい輝きを宿した。  ハンスが女性の眼に青い色彩を加えると、彼の眼は幸せそうに細められる。女性の金の髪を細筆で描き終え、彼女に緑のドレスを纏わせる。  そうしてその女性の腕には、愛らしい赤子が抱かれていた。その赤子に女性は優しげな眼差しを向けているのだ。  最後に、夜色を背景にした彼女の肖像画に美しい無数の綺羅星を描き、ハンスはキャンバスから絵筆を離した。 「いやあ、これは凄い。魔法でないのに、魔法そのものだ」  つくづくと完成した生涯画を眺めながら、男は満足げな笑みを浮かべる。そんな男の笑みを見て、ハンスもまた微笑んでいた。幸せそうに絵を眺めている男を見ていると、ハンスもまた幸福な気分になれたのだ。  まるで、父親に褒められたように嬉しいと思ってしまう。 「不思議だなあ。この絵の女性は、私の妻とそっくりだ。妻はまだ若いですが、きっと年をとったらこんな落ち着いた雰囲気の女性になるのでしょうね。それにこの子……私と妻の間に子供がいたら、きっとこんな子なんだろうな……」  男の言葉にハンスは大きく眼を見開き、嬉しさに眼を細める。そんなハンスの目の前で、男は愛しげに女性の抱いた赤子をなでた。 「良かったら差し上げますよ。奥様もあなたと一緒にこの絵を見たいと思うでしょうし」 「よろしいのですか? こんな素敵な絵を?」 「ええ、彼女もその方が幸せだと思いますので」  幸せそうに絵を眺める男を見つめながら、ハンスは言う。男は夜色の眼を輝かせながら、そっと絵を両手で捧げ持った。 「ああ、散歩から帰ってきたら、さぞかし妻も驚くでしょう。将来の自分がこの絵の中にいるのですから! 本当に今夜は、いい日だ。はやく、あいつも帰ってくればいいのに」  無邪気な男の言葉に、ハンスは一瞬だけ顔をしかめる。けれど、すぐに笑みを取り繕って、ハンスは男に返した。 「絵も描けたことですし、私はこれにて立ち去ろうと思います。奥様が早く見つかるといいですね」 「ええ、もしよかったらまた、ここで会いましょう」 「ええ、その時が来たらまた、お眼にかかれると思います」  荷物を纏め、ハンスは男に別れの言葉を放つ。男は名残惜しそうにハンスを見つめながらも、また、月が奇麗な夜に会いましょうと笑った。  そんな男に背を向け、ハンスは暗い森の中を歩く。ふと背後にいる男を振り向くと、男は愛おしそうにキャンパスを抱えながら、月明かりの中で目を瞑っていた。  かすかに聴こえてくる男の鼻歌を耳にしながら、この歌は母が歌ってくれた子守唄だとハンスは苦笑する。 「また会いに来るよ、父さん」  そう男に囁いて、ハンスは前を向く。  男の歌を聴きながら、ハンスは思う。満月の美しい夜に、自分の生涯画をこの場所に描きに来よう。それは、ハンスにとって遠い未来の話だろうけど。父親である彼にとっては、すぐにやってくる明日だろうから。  そんな自分の未来を想像して、ハンスは夜色の眼に微笑みを浮かべていた。                               (了)
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