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「お待たせしました、終わりました!さあ帰りましょう」
わたしは元気よく立ち上がった。
ああ、お腹すいた!早く家に帰ってオカンのご飯を食べたい!
両手を上げて、ん~~~っ!と伸びをしたときに、誰かがわたしを見つめているような視線を感じて後ろを振り返ったけれど、誰もいなかった。
おかしいな?と首を傾げつつ帰り支度をしてフロアを出ると、北川さんは電話中だった。
「はい、今から会社を出るところですので。…いえいえ、こちらこそいつもすみません。失礼します」
エレベーターのボタンを押しながら北川さんを振り返った。
「北川さん、わたし自分で電話ぐらいできますから、いちいちうちの母に電話するのやめてもらえません?」
「いいじゃないか、芳恵さんも娘の帰りが遅くなるのは心配だろうし、帰ったらすぐあったかいメシが出てきたら嬉しいだろ?」
ふたりでエレベーターに乗り込んで1階のボタンを押した後、後ろに立つ北川さんにビシっと指をさして言った。
「うちのオカンのことをヨシエさんって呼ぶの、禁止!」
「芳恵さんがそう呼んでくれって言うんだから、しょうがない」
くつくつと笑う北川さんは、どこか楽しそうだ。
財務部勤務初日から、いきなり北川さんにドッサリ仕事を任されたわたしは、それを入力し終えるのに22時過ぎまでかかってしまった。
販売部のときは毎日ぼぼ定時に退社していたわたしの帰りが遅いことを両親が心配するかもしれないと思って、その日の19時すぎに廊下で自宅に「今日、残業ですごく遅くなりそうなの」と伝えると、オカンは「新しい部署はそんなに仕事が大変なの?」とあからさまに不快感を示したのだけれど、いつの間にやらわたしの背後に迫ってきていた北川さんが私のわたしのスマホをひょいっと取り上げて挨拶し始めると、オカンの機嫌は一変した。
挙句、その日は北川さんがわたしのことを家まで送ってくれて玄関先で両親に頭を下げ、オカンとは電話番号の交換までしたのだ。
そのとき、オカンの目はすっかりハートになっていた。
それ以来、北川さんはわたしの帰宅時間をいちいち自宅に電話するようになり、オカンとは「芳恵さん」「恭平くん」と名前で呼び合う仲だ。
こうしてすっかり、わたしの残業は親公認となり、むしろもっとゆっくり残業してまた恭平くんに家まで送ってもらえとまで言われているわたしだった。
お父さんまでもが「北川君はなかなかの好青年だな」とか言ってるし、もう何が何だか…。
魔王、おそるべし。
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