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『別れよう』
彼からメールが届いたのはつい十分前のこと。内容は見ての通り、交際終了のお知らせだった。
「わかった、と」
簡潔な返信を送って、私は昼食を再開した。
不思議なことに悲しくはない。辛い、どうして、といった気持ちもない。さすがに今回はもう少し続くかなと思っていたけれど、終わりは呆気なかった。
私と付き合った男は、決まって別れ際にこう言う。
「優佳といてもつまらない」と。
じゃあ、最初から付き合わなければいいのに。私と付き合う男は私のどこを見て付き合おうと思ったのだろうか。
「男って、本当顔ばっかりよねー」
お弁当の卵焼きが、指で摘ままれた。ぱくりと、小さい口の中に押し込まれる。
「香織、いたの」
香織は私の高校からの友達だった。香織は「いたよ」と微笑んだ。
「また、別れたの?」
「なんで知ってるの?」
「顔に書いてある」
そんなに、表情に出ていたのだろうか。さほど、ショックでもなんでもないのに。
「わかるよ。優佳はよくポーカーフェイスって言われるけど、あたしからしたら、わかりやすい」
「香織はすごいね。エスパーみたい。これからお昼なの?」
コンビニのサンドイッチとコーヒーを袋から出しながら香織は「そだよ」と言った。
香織とは高校卒業後、別々の学校に進学したけれど、偶然にも地元での就職先が同じだった。それからは、休日などはたまに予定を合わせて遊んでいる。
「優佳とは高校のときからの付き合いだけど、顔は良いのに最初は何考えてるか全然わからなかったわ」
「そうかな」
「そうだよ。まあ、他人よりは感情の幅が薄いよね。卒業式もあたしは号泣だけど、優佳は涙ひとつこぼさないし」
そう言われてみれば、泣いた記憶がない。悲しくなかったわけではないけど、泣くほどではなかった。高校生活なんて、勉強中心で友達もほとんどいなかった。それに、どうせみんな携帯を持っているわけだし、連絡取り合おうと思えばいつでも取れる。連絡し合わなければ所詮それまで。
自分でも冷たいな、と思う。何度も言われた。でも、そう言われても、そういう性格だからどうしようもない。
だから、高校卒業後ほとんど連絡を取っていなかった香織と再会して、今でもこうして仲良くしているのは自分でも驚いている。
「優佳はね、自分の感情を知らないだけだと思う。感情がないわけじゃない。ただ、わからなくて、そのまま、こう……箱ごとどこかに放置している、というか。ごめん、説明下手で」
「いや、べつに。でも、本当に感情が薄いのは事実だし」
香織は拳で軽くテーブルを叩いた。コーヒーが少しだけカップの中で揺れた。
「あたしが言いたいのは、優佳は、本当はたくさんのことを自分が思っている以上に感じているんじゃないかってこと。その証拠に、あたしは優佳が男にフラれたこと秒でわかる」
チクリと、胸に針が刺さった気がした。
じゃあ、私が放置した感情は今どこにあるのだろうか。私は本当は悲しくて辛くて、ショックなのだろうか。
私にもわからないのに――。
「香織の言うことは、難しくてよくわかんないよ」
「ごめん、そうだよね。忘れて」
香織はコーヒーを流し込んだ。そしてクシャリとカップを潰して袋にしまう。
「でもね、あたしは優佳がいつか今以上に特別な感情を持つことができるって思っているよ」
香織はまだ仕事が残っているから、と席を立った。
その背中を見送って、私も弁当箱をバッグに入れる。
昔から、香織はなにかと世話焼きだった。高校のとき、話の輪に入れない私を上手に入れてくれるし、放課後もよく一緒に遊んだ。
私といてなにが楽しいのか今でもよくわからない。私は香織といて、結構楽しいけど――。
チクリとまた胸が針に刺されたような気がした。
今まで付き合ってきた男の人たちはわたしといてつまらないと言っていたけれど、私はどうだった? 楽しかった?
「全然思い出せない」
一体、私は彼らのどこが良くて付き合っていたのだろうか。顔? スペック? まるで、思い出せない。彼らは私のことを少しでも良いと思ったから付き合ったのに、私はなにかそれに見合う感情を持っていた?
思い返してみれば、常に受け身だった。相手が求めてくるままにそれに合わせて適当に見繕う。それっぽい態度を見せる。私に好意を持つ人は、最初はそれに気を良くするけれど、いつか気付いていたのでは? そして次第に、私には何もないと、彼らに対する感情が見えないと察したのでは?
私が今まで交際していたと思っていたのは、相手の気持ちを真似る鏡をしているだけだったのかもしれない。
そこまで考えて、自分の中にたくさんの感情が生まれていたことに気が付いた。ごちゃごちゃして、ないまぜになって、気持ち悪い。
これが、香織が言っていた、放置していた感情の箱?
わからない。わけがわからない。
わからない。これに正解はあるの? どうすれば、何も考えられなくなるの?
香織ならこの感情の箱をどうにかできるの?
それから香りと予定が合わないまま三か月が過ぎた。
とある天気の良い日曜日。私は黒いドレスを着ていた。
視線の先には真っ白なウェディングドレスを着た美しい新婦と新郎。仲睦まじい様子で、顔を見合わせている。どこにでもある普通の微笑ましい披露宴。
新郎新婦の出会いのムービーがスクリーンに流された。
ムービーの中の香織はとても楽しそうだった。
私が見たことのない香織の笑顔。私では見せることのできない表情。
自然と涙が溢れてきた。そしてそれは止まることなく熱を持って頬を伝う。何度も。何度も。
もうムービーなんて涙で見えなかった。ただ、私の中にあるのは香織と過ごしたたくさんの時間、たくさんの思い出だった。
これが、香織が言っていた『今以上に特別な感情』なのだろうか。
私にはわからない。けれど、なにか大きな感情が激しく震えているのを感じた。これまでに感じたことのない気持ち。香織と過ごしたあの頃がずっと遠くに逃げていくような――。
香織が結婚することは半年前から知っていたし、当然披露宴に参加した。けれど、この『特別な感情』が私にあるのを知っていたら、こんなに苦しいのなら参加なんてしなかったのに。
香織はお色直しのため、会場を出ようとしていた。途中、私のいる席で止まった。香織は驚きつつも笑って、そして私の頭を優しく撫でた。
「優佳、泣きすぎ」
「おめでとう、香織」
ハンカチ、もう一枚持ってくればよかった。
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