蜘蛛は助けを求めない

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そこまで話を聞いて、はたと思い当たった。男はこのことを口に出すのは恐ろしかった。 「もしかして、逃げて来たんでしょうか」 刑事がちらと男を見てふいと視線を逸らす。この様子から自分の予想が当たったのだと恐ろしい思いが全身を満たした。保護されるべき少女が偶然会った泥棒に殺される。そんなことあっていい話ではない。不遇な少女の身の上はどこまで不遇なのか。自分の背中に大きな岩が落ちてきて、ぐいぐいぐいぐい地にめり込むまで押しつぶそうとしてるかのようだ。 刑事は言おうか言うまいか迷っているようだった。男から視線をそらしてぽつりとこぼした。 「実の両親を殺してな。毛布の中にアイスピックを隠し持っていた。もしかしたら、お前のことを追ってきた人間だと勘違いして、殺そうと思っていたのかもしれん」 知らぬ間に握っていたこぶしをさらに強く握る。まさかの話に頭がついていけなかった。 「計画殺人だったみたいでな。毒を使った殺しだ。本当にその少女が計画を立てたのか、捜査にあたっている人間が困惑している」 刑事の話では少女は実の両親を殺し、さらに児童買春を告発しようと企んでいたようだった。少女が送ったデータが、インターネットを介して警視庁全体にばらまかれている。さらに数日後にはマスコミに流すと脅しの文句が載ったメールもあった。隠ぺいするのは許さないという無言の怒りが伝わってくるようだった。 「け、警察のセキュリティ、どうなっているんですか」 「警察関係者に、協力者がいないか確認中だ」 それとな、妙な文章があったんだが、と前置きをてから口を開いた。その言葉に硬直する。 「あなたが、どんなに蜘蛛を助けても、救いの糸は降りてこない」 この言葉、知っているかと聞かれて男は思わずうなづいた。少女と目が合った時、自分に向って言った言葉だった。そのことをそのまま話すと刑事はため息をついた。 「どいう意味があるんだろうな。蜘蛛と糸って言ったら、芥川龍之介の作品、『蜘蛛の糸』しか思いつかん」 名作中の名作であるが刑事も男もいまいちぴんとこなかった。 「『蜘蛛の糸』っていったらあれですよね。悪人が生前一匹の蜘蛛を助ける。それきり悪人は悪行の限りを尽くし、死んだあとは地獄に落ちた。蜘蛛を一匹助けた善行を認め、お釈迦様が蜘蛛の糸を一本垂らす。それから、えーっと」 男はろくに本を読んだことがなかったが、ぼんやりと覚えていたようで必死にこめかみを指で叩く。その指は、腕全体が小刻みに震えていた。 「悪人の前に降りてきた糸を他の罪人たちと奪い合う。悪人が先にのぼり、後から登ってきた他の罪人を蹴落とした。男は罪人たちの重みで糸が切れてしまうと焦ったんだ。糸がぷつりと切れて、悪人は地獄に落ちていく。お釈迦様はがっかりして、その場を立ち去るという話だったはずだ」 「よく覚えてますね」 「学校の教科書に載ってたぞ」 なるほど学校の教科書に載るほどの作品なら、知っている人も多かろう。自分も知らぬ間にしっかり勉強していたらしい。全部を覚えていなくても、芥川龍之介なる人物の作品を嗜んでいた事実に、男は気を良くした。 刑事はそれから二つ三つ男に質問した後、席を立ちあがる。部屋から出ていこうとする刑事に男が話しかけた。 「俺、その少女が、恐ろしく頭が良いのは認めますよ」 ん?と振り返った刑事に、先ほどまでのとぼけた調子を全く見せず、うっすらと笑った。 「ずっと考えているんですけど、少女の侵入経路がさっぱりわかりませんもん。人がいる気配すらしませんでした」 男はこれでもプロの泥棒だ。誰かが部屋の中にいればわかるし、男自身が家に入る時気づく。今までにも何度か同業者と鉢合わせをした経験から身に着けたスキルだ。 「参考にするよ」 右手をあげて今度こそ刑事は部屋を後にした。
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