番外編  100日後の落下傘

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「恭ちゃん、食べないの」 歩が促しても、神楽坂はソファーの背もたれに身を預けたまま、動かない。 カフェテーブルにわざわざ用意してあげたザッハトルテは手付かずのまま、セロファンがついた状態で置いてある。 いれなおしたコーヒーも、まるで呆れ返ってしまったかのように、白い湯気を立てることをやめてしまった。 歩は口に咥えていたフォークを皿に置いて、テレビのリモコンを操作した。 一度こうなると、何を言っても無駄だとわかっているから、しばらくは彼の思うようにさせてやるのだった。 ——体を重ねた後、神楽坂がこうして放心状態になることはたびたびあった。 こんな風に、交わりが盛り上がれば盛り上がるほど、事後に彼を襲う憂いは深くなるようだった。 「なんで落ち込んでるの」 彼は腹の上で手を組んだまま、視線だけを一瞬、こちらにやった。 「いや、俺はいい大人なのに、なにやってんだろうって。君を泣かせて……」 泣き面を見て興奮していたくせに——心の中で叫びつつも、声には出さなかった。 「だからー、さっきのはそういうプレイでしょ。すごいよかったよ?」 歩は努めてからりと言ったが、彼の心はそれでもなお、罪悪感で湿っているようだ。 「逆に、恭ちゃんが余裕ぶったり、理性的だと不安だもん。求めてくれたほうが安心するしさ」 彼の膝に跨って、向き合う。 彼は組んでいた手を解いて腰に回してきた。 「うん。ありがとう」 気弱な返答だ。やはり、まだ立ち直れないらしい。 こういう時に歩は、彼との年齢差——特に、自分が未成年であることのもどかしさを感じるのだった。 ——彼が自分を抱くときは、彼は彼のを捨てている。 体内をめぐる道徳心や理性、常識といったあらゆるものを少しずつ削ぎ落としながら、向き合ってくれているのだ。 満たされるばかりな歩に比べて、常になにかを犠牲にしているのは、いつだって彼だ。現に今だって———— 「俺がせめて——二十歳(はたち)になったら違うのかな」 「え?」 「恭ちゃんの苦しみも、減るのかな」 神楽坂はようやく、声を出して笑った。 「どうかな。俺にとっては17も二十歳も同じようなもんだよ」 「でも二十歳は一応、大人でしょ。なんか、社会的に認められる感じがするし」 「うん。言ってることはわかるよ」 神楽坂は背中を優しく撫でながら、同調してきた。 慰めるつもりが、いつのまにか慰められてしまっている。 歩は彼の胸に顔をつけて、息を吸った。 今ではもうすっかり慣れた、彼の生活のにおい。嗅ぐたびに、気持ちが安らぐのだった。 「早く大人になりたいな。年齢差は縮めらんないけど——恭ちゃんの負担? なんか、そういうのを……減らしたい」 すると彼は目を細めて、歩のサイドの髪を耳にかけた。 その繊細な愛撫——子どもを寝かしつけるときのような優しい手つきに、歩は猫のように体をしならせて甘えた。 「いいんだよ。俺は今の歩を好きになったんだから。覚悟して君と向き合うって、俺が自分で決めたんだからね」 「のわりに、毎回落ち込んでるじゃん」 神楽坂は表情を崩して、情けなさそうに笑った。 「うん、それはごめん。許して」 ふたりきりのときにごくまれに見ることのできる、神楽坂の発展途上な部分。 弱点を見つけられるのが苦手な彼のことだから、それもいつかは成熟してしまうのだろうか。 消滅してしまうのが、なんだか惜しいくらいにいじらしくて、愛らしかった。 歩は彼の隣に座り直し、改めて彼の体に抱きついた。 骨張った大きな体の、窪みやカーブを指でなぞる。 「さっき、嬉しかった」 「ん?」 「恭ちゃんが妬いてくれたの、初めてだったから」 二の腕に顔を押し付けながら言った。 だいぶ意地悪にはされたが、それでも、空洞だった部分にあたたかいものが満ちていくようで———— 「別に嫉妬なんてしてないよ」 甘い余韻を切り裂くような、神楽坂のきっぱりとした声が響いた。 「え?」 「ただ確かめただけ」 にっこりと、お決まりの笑みを繕っている。 「確かめて、どう思ったの?」 「ふーんそうなんだって。それ以上でも以下でもないよ」 歩は脱力してしまい、ため息にもならない弱い息を吐いた。 あんな態度をとり、人を散々なじっておいて、よくもまあそんなことが言えたものだ。 しかし、一度こうなると、何が何でも認めないことはわかっていた。 「……はいはい」 「はいはいってなによ。本当だよ?」 「そういうことにしとく」  少し笑うと、神楽坂は不服そうに口を尖らせた。 まあいい。 認めてくれなくても————
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