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フラッシュ 01
三月に奢らせるアイスはなにがいいだろう。
クラスの女子が言っていた、生クリーム専門店のなんちゃらアイスというのがいいだろうか。最低でもハーゲンダッツだ。しかも新作。コンビニにしか売ってないやつ。
気を紛らわすためにそんなことばかり考えながら、歩は神保町駅に降り立った。
本とカレーの街といわれているだけあり、見回してみると、それらの看板が目立つ。
今日は午前中に雨が降っていたこともあり、湿気が高めだ。水をはらんだ空気のせいなのか、一生手に取ることがなさそうな専門書ばかりを扱った古書店を横切ったとき、古紙特有の匂いが濃く立った。
神楽坂の勤める出版社、マガジンホームの入っているビルは、空を圧迫するかのように、ひときわ高く聳えていた。
ロビーはビジネスマンで溢れていて、制服姿のままでは入りにくい。
歩は入り口付近まで来ると一度立ち止まり、三月から預かった神楽坂の名刺を取り出した。
電話番号は固定電話とスマートフォンのふたつ記載されていたから、迷わず個人宛の番号に発信すると、こちらが緊張する暇も与えないくらいの速度で「はい」という一言が滑り込んできた。
それはまぎれもなく、神楽坂の声だった。
歩は思わずスマートフォンを両手で持ち、背筋を伸ばした。
「あの、土屋歩です。三月の友達の……」
一瞬の間を挟んで、神楽坂がああ、と言った。
声のトーンがいくらか上がり、それが拒絶ではないことを悟ると、ようやく安堵する。
「この前はありがとう。どうしたの?」
「三月に頼まれて、ハンカチ返しに来ました。今、会社の前にいて————」
ふたたび間が空き、彼がハンカチの心当たりを必死に探っているのがわかった。
なんとか記憶の糸を手繰り寄せたのだろう。ひと間空けて、驚嘆の声を漏らした。
「わざわざ来てくれたの? 別にそのまま持ってくれててよかったのに」
——だから、あえて会社まで来てから連絡をしたのだった。
先に電話をしたら「返さなくていい」と言われてしまい、会う機会を逃してしまうのは目に見えていた。
「三月がどうしても返したいって。それに俺も……」
「うん?」
歩はスマートフォンを握り直した。
「俺も……暇でしたから」
背後から足音が近づいてきて、自動ドアの端に寄った。
電話口からは忙しそうな気配が伝わってくる。彼はたびたび電話口から顔を離し、周囲の人間になにかを指示しているらしかった。
「あ、仕事中ですよね。突然来てすみません……」
「いや、全然。むしろせっかく来てくれたのにごめんね。今ちょっと……」
——やはり、取り込み中だったらしい。
困ったような彼の声を拾った瞬間、羞恥が歩を取り囲んだ。
その途端、急に気弱になり、声が先細る。
「こっちこそ、なんかすみません。忙しいみたいだしあとで送ります」
「あ、ちょっと待って。帰らないで」
神楽坂が慌てたような声を出した。
こちらの落胆ぶりを察したのだろうか。気遣って、一瞬だけでも下に降りてきてくれるつもりなのかもしれない。
もしそう言われたら、歩は丁寧に辞退するつもりだった。
——しかし、彼の口から出たのは予想外の言葉だった。
「アユ君。今、暇なんだよね?」
「え? はい」
「ちょっとバイトしない?」
歩はゆっくり瞬きをしながら、エントランスの自動ドアが忙しなく開閉するのを見つめた。
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