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「歩……」
ふたたび、口付けられる。
唇を離しても、舌先を突いたり絡めたりしながら、至近距離で見つめられた。
錆色のそれが欲情にすっぽりと包まれ、とろりとまどろんでいる。
やがて彼は猫のように体を擦りつけながら、耳打ちしてきた。
「ごめん、やっぱいれたい……」
太腿に、はっきりとした彼の興奮を感じて、歩は戸惑った。
至近距離で目が合うと、彼は半ば懇願するような目つきで、ふたたび体を擦り付けてきた。
「ね……お願い、歩————」
かすれた声が耳たぶをくすぐるたび、感覚が麻痺した。
このまま流れに任せてもいいんじゃないか。彼を受け入れてもいいんじゃないか————
歩は、ゆっくりと窓の外に視線をずらした。
東京タワーの赤い光が、こちらを見下ろすようにして光っている。
信号機の赤とも、ブレーキランプの赤とも違う、やさしい色だった。
歩は視線を戻し、彼に向き合った。
こちらが正気を取り戻したのを悟ったのか、彼の目もまた、それを受けてゆっくりと覚醒していった。
「ごめん……」
言葉に詰まりながらどうにか絞り出すと、玄は歩の額に唇を落とし、体を起こした。
「謝ることないよ。どさくさに紛れて襲おーとしたのはこっちだし」
歩も身を起こした。
彼に無造作に放られた衣服や下着は手の届かないところに落ちていたから、とりあえずニットの裾を両手で伸ばし、前を隠すようにして座り直した。
「寸止めされたのは歩が初めてだけどね」
「うん。ごめん……」
玄は頬杖をつきながらそっぽを向き、小さくため息を吐いた。
それからふたたび振り向いた時にはもう、いつもの——今日やっと見た、自分の知っている玄の顔だった。
「好きな人とはどうなの?」
歩は口角を引き締めながら、首を左右に振った。
「この前と変わんないよ。俺の望むような関係にはなれないんだって。年が離れすぎてるし、付き合うのはやっぱり普通じゃないって」
「普通ねー」
「向こうは普通に固執するから」
普通の恋人同士。
普通の親子関係。
神楽坂は、それに縛られすぎているような気がするのだ。
「諦めちゃうの?」
ふいに玄が言った。
「付き合えないって言われちゃ、諦めるしかないじゃん……」
それは果たして、いつになるのだろう。
自分でも予想がつかなかった。
「付き合えないから、諦めちゃうの?」
気づくと、その錆色の目がこちらを見つめていた。
「じゃあどうしろって言うんだよ」
「別に。ただ、好きのゴールが付き合うことだっていうんなら、歩だってじゅうぶん、普通にこだわってんじゃん」
歩は一瞬、言葉を失った。
意思が、決意が——迷子になる。
「俺は、玄みたいなおかしな価値観とは違うんだよ……」
「好きな相手に『好き』とか『付き合って』とか簡単に言わないのが、俺なりの誠意なんだけどなー」
「おかしいよ。一般人には理解不能」
玄は力なく笑った。
「それ、振られる時にいつも言われるやつー」
玄はふたたびオットマンに足をかけて、ソファーにもたれた。
そして頭をゆらゆらしながら天井を見上げた。
「じゃあ芸能人と付き合えばとも言われるんだけどね。俺が好きになるのって、歩みたいな価値観の人ばっかなんだー。俺もなんだかんだいって、普通に未練があるのかな」
歩は、窓ガラスに映った玄と、窓の向こうにそびえる東京タワーとを交互に眺めた。
今日ほど彼を改めて遠く——それこそ別世界の人間なのだと認識した日はない。ただ同時に、今日ほど身近に感じたこともなかった。
「歩には諦めないでほしいなー、なんとなく」
「えー、もうホントしんどいんだけど。ボロボロになりそう」
「ボロボロになったら、今度こそ俺が抱いてあげる」
「上からかよ」
小突きあい、笑い合う。
ふざけていたかと思えばふたたび手を取られて、握られた。
「俺も頑張るから————」
玄の声は小さかったが、力強かった。
東京タワーを眺めながらソファーに身を沈めて、言葉少なに1時間ほど過ごした後、歩はタクシーで帰った。
そして車から降りた時、身に纏わりついていた意固地ななにかが、ほろほろと剥がれていった。
それはまるで、枝分かれになった感情の回路が、太い線になって繋がっていくような、そんな清々しさだった。
その夜は、スマートフォンの電源を切ったまま、久々に深く眠った。
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