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「もう一周していいですか?」
スタッフの声を遮って神楽坂が発した時、目を見開いた。
スタッフも歩とほぼ同じ目の形をしている。
「いや、いったん降りてからチケットを買っていただいて————」
「ちょっと落とし物しちゃったんです。降りたらちゃんと買いますから。ね?」
神楽坂の、にこやかだけれども妙に圧のある交渉に、スタッフは困りながらも言い返せず、渋々、扉を閉めた。
途端、掴まれた手首がじんわりと熱を持ち始めた。
ゴンドラはふたたび上昇を始める。
それに伴い、歩の決意はぐらぐらと揺らいだ。自分なりに納得して、あれから降りたはずなのに、気づけばまた、地上が遠く離れていく。
いったん上昇したら最後、自分はまた、あのゆっくりとした下降に耐えられるのだろうか————
歩は、遠方で動く黒い傘のシルエットを捉えながら、ふと不安に駆られた。
「……周から電話があった時、本当に怖かった」
神楽坂がぽつりと漏らしたのは、ふたたびホテルの最上階の高さまで来た時だった。
「病院に向かってるとき、ぐるぐる色んなことが頭をめぐって——理屈がさ、そこでばっさり切り落とされたっていうのかな。君がいなくなることがもう考えられないって、改めて気づいた」
彼の言葉は、歩の、末端という末端を震わせた。
腹式呼吸すらままならず、しゃくり上げるような息継ぎが漏れるだけだった。
「俺……そんなこと言われたら、また期待しちゃうよ?」
全身に力が入らず、半ば寄りかかるように、神楽坂の膝に手を乗せた。
指先が震える。
神楽坂は、歩の極度の緊張をほぐすように、そっと手を重ねてきた。
轟音が、やたらと遠くで響いたような気がした。
「期待していい、なんて言い方は……厚かましいかな」
「がましくない」
神楽坂はこちらの食い気味な返答にひと笑いして、それから優しく額をぶつけてきた。
「歩、ありがとね」
「うん?」
「大事なことを色々教えてくれて。俺に————」
息を止めていた数秒間のあいだに、彼の唇が歩のそれに重なった。
遠慮がちな、ぎこちない触れ方。
彼から、はじめてもらったものだった。
「恭ちゃん……」
自分はいつでも彼から与えられるばかりだった。
しかし、自分も彼に、なにかを与えられたのだろうか————
わきあがる思いは、喉元を通る前にふつふつと消えていった。
「今までごめんね。本当は歩にずっと触れたかった……」
彼の弱々しい声を拾うなり、今度は自ら口付けた。
舌で下唇を突くと、彼はやや躊躇しながらも口を開いた。
そして、その甘い沼に引きずり込まれてしまう。
自分たちが今いる位置はどこで、あと何分したら乗降口に着くのかなど、細かいことはもうわからなかった。
轟音はさらに遠くなり、かすかに鼓膜をくすぐっただけで、歩の全神経はすでに、彼の感触や温度、においに支配されていた。
やがて神楽坂が体を離したとき、ようやく視界の隅に、近づいてきた地面を捉えた。
「早く、恭ちゃんとふたりになりたい……」
まるでつかの間の夢のようで、彼の襟元にしがみつき、呪文のように呟いた。
ゴンドラが乗降口に着くと、彼は歩の手のひらをひと撫でした。
外では、先ほどのスタッフがややふてくされた表情でこちらを伺っている。
「はー、言っちゃった……」
降りる際、神楽坂は口元に手のひらをあてて、今更恥ずかしそうにこぼした。
耳の裏からうなじにかけて、うっすらと赤く染めているのを背後から見て、とても消化しきれないほどの愛しさが、とめどなく押し寄せるのだった。
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