番外編  100日後の落下傘

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「歩、お腹いっぱいになった?」 隣をすり抜けていく車のライトになぞられて顔を上げると、神楽坂がこちらを覗き込んでいた。 控えめに頷くと、顎にカシミアのやわらかな布地が触れた。 待ち合わせ場所で合流した時に「首が寒そうだから」と、彼が巻いてくれたマフラーだ。鼻を埋めると、なじみのある香水のにおいがほのかにわき立つようだった。 「なったよ。デザートの余力は残してあるけど」 ダウンジャケットの上から腹部をさすって見せると、神楽坂はホッとしたように笑った。 食事を共にする時、彼は必ず、量が充分に足りたのかという問いかけをしてくる。10代男子の食欲は底なしだと思い込んでいるようだが、特にスポーツをしているわけでもない歩の食事量は、神楽坂とさほど差がなかった。 鼻の頭のほか、頬から耳にかけてまでがほんのりと染まっているのは、きっとアルコールのせいだろう。 食事をした時、神楽坂は2杯ほどワインを飲んでいた。 ——今日はもともと、神楽坂の家に泊まりに行く約束をしていた。自宅に直接向かうつもりでいたが、明日がバレンタインデーということもあり「外で待ち合わせをして食事をしよう」と、彼から提案があったのが、昨日のこと。 予約をしてくれた近所のイタリアンレストランは、一軒家を改装したという、こじんまりとした店だった。 彼の行きつけの店らしく、特別な時に行くというよりは、ひとりでふらっと晩御飯を食べに行くような——気軽で身近な場所なのだという。 歩にとっては、また新たな彼のにふれられたことが、なによりも嬉しかった。 「俺も、ちゃんとデザート分は残しておいたからね」 駅から離れて人通りが少なくなってくると、神楽坂はそう言いながら、歩の腰に手をまわしてきた。 服越しのささやかなスキンシップでも、彼から与えられただけで、体は簡単に熱くなる。 ——会うのは1週間ぶりなのに、駅で待ち合わせをしたから、まだまともに触れていないのだ。 彼の指の感触を受け取るたび、一刻も早く抱き合いたいという欲求が、堰を切ったように押し寄せてきた。 「歩の買ってくれたケーキ食べながら、映画でも観ようよ」 一方、神楽坂は悠然とかまえていた。 彼からのんびりとそう提案された時、歩は紙袋の持ち手を握り締めながら、曖昧に頷くしかなかった。 中には、駅前で購入したザッハトルテがふたつ、入っている。 仕方がない。もともとケーキを買っていくことを提案したのは、自分なのだから———— 基本的に、ふたりで出かけるときは彼がすべて支払いを済ませてくれる。今回の食事も例に漏れずだったが、せっかくのバレンタインデーだから、自分からもなにか贈りたかった。 とはいえ、チョコレートを渡すのも妙なので、ケーキをご馳走するという結論に落ち着いたのだった。 ——だが、今は少し後悔している。 とにかく彼にふれたくて、映画もザッハトルテも、単なる足枷でしかなくなってしまった。 大通りを抜けて住宅地に入ると、歩は自身のポケットから手を引き抜いて、神楽坂のコートのポケットに差し入れた。 指先を絡めながら、歩よりもだいぶ高い位置にある肩に身をすり寄せると、神楽坂の唇から白い息がのぼった。 「歩の機嫌は直ったかな?」 「……別に、不機嫌になってないよ」 やはり、見抜かれていた。 普通に振る舞ったつもりでいたので、やや気落ちしたが、それでもあっさりと肯定するわけにいかなかった。
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