番外編  100日後の落下傘

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——ふたりの間に生じた小さな諍いの、そのきっかけは些細なことだった。 レストランに向かう道中「バレンタインのチョコレートは貰ったのか」と聞かれたので、歩はできるだけ普通に——しかし、慎重に言葉を選びつつ答えた。 個数だけいえば、4個ほど貰った。 ただ、そのうち3個は、仲の良い子に「あげるー」という軽いノリで渡されただけのものであった。 残りひとつは、顔見知りではない女子——上履きのつま先のゴムの色が赤だったので、一年生だろう。 昼頃にひとりで廊下を歩いていたら、女子の集団にあっという間に包囲されて、その中の1人に、半ば押し付けられるような形で手渡されたのだった。 包みの中に入っていたカードには、名前と連絡先、それに「友達になってください」というひと言が添えられていた。 決して浮かれず、なるべく淡々と話したが、神楽坂は気を悪くするどころか、あからさまに好奇を剥き出しにした。 その表情には一寸の陰りや曇りもなく、瞳はむしろ、輝いてすらいた。 彼はやたらと詳細を聞きたがり、渋る歩から話を引き出しては「若いっていいね!」などと、あっけらかんと言ったのだった。 歩はしばし、呆気にとられた。 彼のことだから、嫉妬心をむき出しにするようなことはないだろうと予想していたが——それでも、なんらかの不自然なリアクションはあると思っていたのだ。 だから「相手は可愛かったのか」とか「返事はどうするのか」などと、嬉々として聞かれたのは、まったくの想定外だった。 そんな彼の態度にひっそりと傷つき——その後に交わした会話の内容はよく覚えていない。 頼んだボロネーゼパスタの味はよくわからず、咀嚼しても、口の中でぼろぼろとまとまらずにいた。 「ボロネーゼのボロの由来はこういうことなのか」というくだらない発想まで浮かんでるぐらいには、彼との時間を持て余したのだった。 歩の浮き沈みの原因は、ここにあった。 ——神楽坂は、嫉妬をしてくれたことがない。 束縛もしないし、押し付けがましくもない。いつだってこちらの意思を尊重し、選ばせてくれる。 ひとりの人間として扱ってくれていると実感し、救われることもあったが——不安のほうが圧倒的に大きかった。 歩には、まだ自分が子どもであるという自覚が、はっきりとある。 時には導いてほしいし、すっぽりと包み込んでほしい。されるがままになりながら、彼の揺らすかごの中でまどろんでいたいという思いのほうが強かった。 欲求が募るたび、独占欲の強い恋人をもつ三月が、ふとうらやましくなるのだった。 自分が「会いたい」と言わなければ、求めなければ——彼はどういう行動を取るのだろう。 自主的に求めてくれるだろうか。 しかし、怖くてそんなことを試す余裕などなかった。 「……恭ちゃん、酔っ払った?」 伺うと、神楽坂は空いた方の手を頬に当てて、微かに頷いた。 「……やったー」 「なにがやったーなの」 歩は改めて、彼の腕に額を寄せた。 酔わせでもしないと、神楽坂が積極的になることはまずない。それに、自分に触れるとき、今でも彼が躊躇しているのがわかる。 ——マンションまでもうすぐという時、神楽坂は最寄りのコンビニの前で足を止めた。 「牛乳がないから、買っていっていい?」 「牛乳? 何に使うの」 「コーヒー。歩、入れるでしょ。ケーキにはコーヒーがないとね」 コーヒーどころか、もはやケーキすらどうでもよかったが、神楽坂はことのほか楽しみにしているらしい。 こちらからの贈り物の機会を大切に扱ってくれていることが嬉しくて——もどかしい。 そんな焦ったい感情に、歯噛みした。
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