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「アユ君」
通りの良い声で呼ばれて、ぼやけていた視界のピントが合う。
振り返ると、神楽坂が片手を上げて近づいてくるところだった。
上質なフランネルでできたグレーの無地のシャツに、下はゆったりとしたパンツ。
遠目から見ると彼自身もモデルのようだった。
「ごめんね。変なこと頼んじゃって。撮影してたんだけど、一点、調達し忘れちゃっててね。バタバタしてて取りに行く時間がなかったから助かった」
神楽坂は紙袋を受け取って、中身を見た。
「それで合ってますか?」
「うん。大丈夫」
よかった。
そう言いかけ、慌ててポケットをまさぐった。
「あと、忘れるとこでした。ハンカチ」
「あー、そうだ。忘れてた! わざわざありがとね」
神楽坂はそれも紙袋に入れた。
物の受け渡しが終わってしまうと、途端に手持ち無沙汰になって、歩はバックパックの持ち手を強く握った。
じゃあこれで————
神楽坂からすれば、せっかく来てくれた客人を無碍に扱うわけにもいかないだろう。自分から別れを告げなければいけないのはわかっていたが、なかなか言葉が出てこない。
そして今更、自分が極度に緊張していることに気付いた。
「あ、スタジオね。地下にあるんだけど、少し覗いてく?」
思いがけない誘いだった。
「……忙しいのに、邪魔じゃないですか?」
「全然。カメラマンに立ち合ってるだけだから、今は俺も暇だし。まあブツ撮りだからモデルさんとかはいないけどね。来る?」
「せっかくだから見てみたいです」
自然と、笑顔になっていたらしい。
神楽坂は「そんなに面白いもんじゃないけど」と釘を刺しながらも、嬉しそうに頭をかいた。
彼の後を追い、先ほどとは違うエレベーターへと乗り込んだ。
搬入などに使う基らしく、地下まで各階に停まるようだ。保護のためか、ベニヤ板のようなものが壁に面して打ち付けられていた。
「なんでわざわざアユ君が来てくれたの?」
神楽坂はB1と書いてあるボタンを押すと、うっすらと笑みを浮かべて覗き込んできた。
口調はいたって普通で、それが純粋な疑問であることはわかっていたが、それでもやはり、慌てふためいてしまう。
間があいて、歩はようやく言い訳を思いついた。
「三月が……アイス奢ってくれるっていうから」
言ったすぐそばから後悔が押し寄せてきたが、それを聞いて神楽坂はからからと笑うだけだった。
「そうかー、それじゃ俺は彼に感謝しないとな」
「え?」
「おかげでもう一度、アユ君に会えたからさ」
心臓がやかましく音を立てる。
言葉に詰まっているうちに扉が開いて、発するタイミングを失ってしまった。
俺もです————
先行する背中に向かって、心の中で呟いた。
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