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フラッシュ 04
すべての撮影が終わったのは、歩が来て2時間ばかり経った後で、すでに8時を回っていた。
着替えをしている間に、神楽坂はいなくなっていた。
「今日は本当にありがとう。神楽坂さんが強引でごめんね。謝礼についてはまた追って連絡します。見本誌も送るから」
松木が名刺を差し出してきた。
「Caesar編集部 松木芽衣」と書いてある。
それを見て、セットを解体していた村瀬も慌ててポケットをまさぐりながら近づいてきた。
「挨拶が遅れちゃって……」
こちらには「フォトグラファー 村瀬新太」と記してあった。
歩はとりあえず頭を下げて、それらをカードケースにしまった。
「っていうかさ、土屋君は神楽坂さんとどういう知り合いなの?」
村瀬の目に好奇がにじんでいる。
「あ、えーと。家が近所で……」
どう説明したらいいのかわからない。
互いのことはまだよく知らないし、会うのは3回目だ。他人という表現のほうがまだ今のところはしっくりくる。
「あーねー。あれでしょ、村瀬くん。あれに反応したんでしょ」
「そうそう。俺、撮ってる途中で、もう気になって気になって……」
ふたりは、身を寄せ合ってにやついている。
意図が掴めずに、その光景をただ傍観していると、松木がこちらを向いた。
「あ、ごめんね。神楽坂さんが土屋君のこと、名前を呼び捨てしたでしょ」
予想外すぎて、歩は目を丸くした。
松木はボブヘアの髪を耳にかけながら、声のボリュームを絞った。
「神楽坂さん、基本は名前を呼び捨てにしない人なの。自分の子どもと、相当お気に入りの人しか、名前で呼ばないんじゃないかなぁ」
神楽坂がバツイチで、別れた相手との間に小学生の子どもがいるのは、三月から聞いて知っていた。
松木の言葉を受けて、さらに村瀬も腕を組み、斜め前を見た。
「俺が知る限りだと、呼び捨てにしてるのあの人しかいないですよ。あの装丁やってる、ほら……えーと、フリーの……」
「ああ、末永さんね。私も末永さんぐらいしか思い当たらない」
「そうそう! それ!」
末永。
それはつまり、かつて神楽坂と恋愛関係にあった末永謙太郎のことだろう。つまり、今は三月の————
歩はわけもなく焦って、なぜか早口になった。
「さっきはふざけて呼ばれただけですし。それにまだそこまで……」
「いやいや、だって神楽坂さんが最後まで撮影立ち合うとかレアなんだよ!? この撮影は私の担当ページ分だから、いつもならラフとサンプルのチェックだけしにフラッと来てすぐ席に戻っちゃうし!」
「あー、それ思いました。俺なんて、下手すりゃ神楽坂さんの担当分でも丸投げされますよ。『もう俺の好み、大体わかってるよね』とか言ってさ。外部のフリーランスの人間に、丸投げ」
村瀬が神楽坂のセリフを真似るように言って、にっかりとわざとらしく笑うと、松木が手を叩いて笑った。
「それ、神楽坂さんの得意技だから。基本、編プロか私か村瀬くんのだれかに丸投げだからね!」
すると、突然ドアが開いて、ふたりはあわてて口をつぐんだ。
「なに、俺の悪口言ってたの?」
「そうですよ。よくわかりましたね」
村瀬が冗談っぽく言う。
神楽坂は、先程彼が真似したのとそっくりの笑顔を浮かべた。
「はい、村瀬くん出禁!」
「ひでー。そんなこと言うとちょー重いデータ送りつけますからね」
「勘弁して。俺のパソコンじゃ開くのに5時間くらいかかっちゃう」
そして、からからと笑った。
彼らは相当、気心の知れた仲なのだろう。
場を持て余した歩がバックパックを背負うと、神楽坂が顔を上げた。
「歩、支度できた?」
「あ、はい」
「じゃあロビーまで送る。行こう」
神楽坂はひと足先に出て行ってしまった。
ふたりに挨拶をしようとドアを押しながら振り返ると、松木も村瀬も、笑いを堪えるかのように頬を膨らませていた。
その反応になぜかたじろぎ、歩はお辞儀もほどほどに、外へ出た。
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