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「歩は、普段なにしてるの?」
「なにって別に……学校行ったり、バイトしたり、休みなら友達と遊んだり? 普通です」
「なんのバイト?」
「マック」
答えながら、玄の背後に目をやった。女性2人組がさきほどからこちらを見ている。おそらく玄のファンなのだろう。
「どこのマック?」
「白川……三丁目の交差点の」
「あー、知ってる。高校時代にたまに行った」
やはり彼はモデルなのだ——歩は改めてそう思った。
頬杖をついて話しているだけなのに、その仕草や表情がいちいち絵になる。ペンダントライトのチープな光も、彼の持ち前の輝きと混ざり合うと、やたらと高貴なものに思えた。
彼は壁にかかった時計に目をやると、大きく伸びをして、体を捻りながらこちらを向いた。
「あー、もう時間だ」
5時50分。
ちょうどいい時間だ。
玄の声につられるようにして、歩もボディバッグを体にかけた。
「ねー、また今度会おうよ」
テーブルの上で腕を取られ、しばらくの間、固まった。
しかし玄は時間をかけて返事を待つ気もないらしい。
「連絡先交換しよー」
「え、いいんですか。一般人にそんな簡単に連絡先教えて……」
「敬語で話さなくていいよ。玄って呼んで」
玄、というワードを拾った背後の女性たちが、興奮気味になにかを話し合っている。
いま玄って言った!
やっぱりホンモノだよ!
やっと本人だと確証したらしい。
このままだと、席まで寄ってきて話しかけてきそうな勢いだ。
「わかったから……」
慌てて席を立つと、玄もようやく腰を上げた。
背丈があるため、ペンダントライトに頭が当たりそうになることも想定済みらしく、背中を丸めて立ち上がると、短い階段を先に下りていった。
歩はさきほど女性客から充分に距離を取ると、スマートフォンを出した。
それを見て玄もポケットをまさぐる仕草をしたが、スマートフォンが出てくる気配はない。彼は胸ポケットやら後ろのポケットやらも慌ただしく手を突っ込んでから——やがて、ぽつりと呟いた。
「スマホない」
「えっ」
「やば。あれー、どこ置いてきたんだろ」
彼なりに焦っているのだろうが、声のリズムやスピード感は先ほどと変わらない。
そもそも、この男が大慌てすることはあるのだろうか。
頭をかく玄の姿を、生態観察のようにまじまじと見ていたら、
「ごめん、ちょっと探したいから先に行くね」
「え、あ……」
「今度払うから!」
一方的に言い投げて、慌ただしく出て行ってしまった。
——一体なんだったのだろう。
新手の食い逃げだろうか。
約時給1時間分のお金が消えていくと、先ほどいた彼までもが幻だったのではないかと思えてくる。
突然現れて、突然去っていった。
今度払うといったって、次の約束など取り付けてはいないのに——腑に落ちぬ点は多々あるが、人気モデルとお茶をしたという、貴重な経験代だと思うことにした。
脱力しながら店を出ると、神楽坂からちょうどメッセージが届いていた。
「いま会社出たよ。どこにいる?」
途端、忘れかけていた高揚感が全身にみなぎり、脈打つ。
窓ガラスで前髪とボディーバッグの位置を整えると、歩はスマートフォンをタップした。
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