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「あ、三月の父親なんかは酔うとどこでも寝ちゃって、介抱が大変らしいです。一見、そんな風に見えないんだけどなぁ。真面目でかっこいいサラリーマンって感じで」
「みっきのお父さんって、いくつなの?」
「たぶん40……神楽坂さんと同じぐらいじゃないかな?」
神楽坂は顎に手を当てて前屈みになった。
軽く動揺しているらしい。そわそわと体を揺らした後、ようやく顔を上げた。
「どうしたんですか?」
「いや、ごめん。ちょっと……色々ショックで」
なににショックを受けているのだろう。
高校生ぐらいの息子がいてもおかしくない年齢だと実感させられることに、だろうか。
神楽坂はやや焼きすぎた肉を慌ててトングで摘み、そのほとんどを歩の皿に入れてくれた。
終えるとようやくジョッキを掴み、ぐいと煽る。
「歩のお父さんも……そのぐらいなの?」
そのぐらい?
歩はタンをレモン汁につけながら、しばし呆然とした。
「あ、ああ。年ですか? 俺は末っ子だし、一番上の姉とは歳が10近く離れてるんで、うちはもうふたりとも50半ばですよ」
歩はかわりにトングを取り、上カルビを網にのせた。
煙が七輪に巻きつくようにのぼり、神楽坂の表情をうっすらと隠す。
「そっか。よかった」
網に視線を落としていたら、ふいに彼が呟いた。
よかった?
それは一体————
肉から出た脂が網から滴り落ちて、赤い火が揺れた。
そして、今度は歩が神楽坂の皿に肉を盛った。
「話戻しますね。神楽坂さんはどうなるんですか」
「どうなるって?」
「酔っぱらうと」
神楽坂は皿を受け取ると、お礼がわりににんまりと笑った。
「んー。そこらで寝たり悪態ついたりはしないけど、色々なことがどうでもよくなっちゃったりするかな」
「それって悪い意味で? それともいい意味で?」
「両方」
言って、ジョッキをふたたび煽った。
すっかり赤く染まった喉が動く。
瞬間——歩は見たくてたまらなくなった。
色々とどうでもよくなってしまった神楽坂を。
「とりあえず頼んだの全部来たから、後は好きなの注文して」
「やった」
差し出されたメニューを受け取る。
右ページから左ページに視線を移したとき、彼がこちらを見つめているのがわかって、ややたじろいだ。
そして、心の底になにかが灯るのを、自覚したのだった。
「今日、誘ってくれて嬉しかったです」
「こちらこそ。ここの焼き肉、おいしいでしょ」
「それもだけど、また会いたかったから」
赤くなっているのは、自分のほうではないだろうか。
メニューで鼻から下を隠しながら彼を見てみると、神楽坂もまた、拳を当てて顔の下半分を隠していた。
しかし彼の目はアルコールに揺らされ、とろんとしている。
今なら、入り込む隙があるように思えた。
「神楽坂さんって呼びにくいから、呼び方変えていいですか」
「たとえば?」
「俺も下の名前で呼びたいです。恭ちゃんとか、どうですか」
神楽坂は一瞬目を丸くして、前屈みになった。
「恭ちゃんは、恥ずかしいなぁ……」
「そう呼ばれたことないんですか?」
「ないよ。せいぜいカグか恭太かな」
「じゃあますます呼びたい」
眉を下げて懇願すると、神楽坂は目を逸らしてしまった。
「だめですか?」
「いいよ、好きにして」
嫌がっているのではなく、照れているようだった。
歩は手に取ったままのトングを微かに鳴らして遊ばせながら、彼の新しい呼び名を心のなかで復唱した。
「恭ちゃん、本当になんでも頼んでいいの?」
「うん」
頬杖をついたまま、神楽坂はぶっきらぼうに応じた。
その、彼らしくない雑な振る舞いが、歩の心をゆさらぶるのだった。
歩は店員を呼び、肉を数種類と追加のビールを頼んだ。
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