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「恭ちゃんの家、どのへんなの」
「歩の高校の近くだよ。校舎裏の通りの、コンビニの隣にあるマンション」
——同じ市内ではあるが、ここからだと徒歩で30分弱はかかる。
それに、最寄駅からもだいぶ離れていた。
「駅までけっこう距離あるね。会社まで通うの大変じゃないの?」
「そうなんだけどねー。息子の近くに住みたいからさ」
「何歳なの」
「8歳。小学2年生。やんちゃだよー」
息子のことを話し始めた途端、顔が綻ぶ。
それを見て歩は、彼が変態おじさんなどとは程遠い、年相応の普通の男性なのだと改めて思った。
そしてそう思った途端、彼が遠ざかって見えるのだった。
————事情があって離婚はしたものの、子どもは変わらずふたりで育てていて、今でも週の半分近くは息子と一緒に過ごしているらしい。
嬉しそうに話す姿を見ていたら、胸の奥が縮こまるような感覚に襲われて、腕の力を緩めてしまった。
息子は8歳。
自分と10も離れていない。
彼からしたら、8歳も17歳も同じようなものなのだろう。
今のスキンシップだって、神楽坂からしたら、子どもとの単なるじゃれあいにしか感じていないのかもしれない————
「どうしたの?」
言われて、慌てて顔を上げた。
首を左右に振るが、咄嗟に繕えない。
「あー、バイト上がりだから疲れてるよね。車で来ればよかったかな」
歩は首を左右に振ってから、ふたたび腕を握る手に力を込めた。
「そういえば恭ちゃんって、高い車乗ってるよね」
神楽坂はまた目を見開いて、よく知ってるなあと呟いた。
「高くないよ。車に興味ないんだけど。古い友人に頼まれて渋々買ったの。値切ったよー。でもひとりだとあまり乗らないけどね」
「そうなの?」
「日ごろ運動不足だから、なるべく歩いたり自転車使うようになってさ。せいぜい息子の送り迎えで使うぐらいかなあ」
——乗せる恋人がいなくなってしまったことも、原因のひとつなのだろうか。
空いた助手席に座る権利が、自分にもあるのだとしたら。
歩は2度ほどゆっくりと呼吸をしてから、彼の腕にかすかに寄り添った。
「じゃあ、俺を乗せてよ」
そして、腕を引き寄せた。
鼓動の速さをあえて伝えるように、胸元に押し付ける。
「ドライブデート連れてって」
——本来、歩はわりと器用なはずだった。
押すタイミング、引くタイミングを充分に心得ていたし、未熟ながら駆け引きめいたこともしてきた。
そして、大抵は皆、その術中にはまるのだった。
しかしこの男の前では全てが狂う。
方位磁石すら狂う、迷いの森のようだ。
だから、持ち駒はひとつしかなかった。
それは歩が本来、一番苦手とする「直球勝負」だった。
「今週の日曜日、空いてる?」
神楽坂の声がうなじあたりに落とされて、歩は顔を上げた。
「空いてます」
「じゃあ、デートしよっか」
デートと復唱されて、歩は恥じらいと嬉しさで、口角が引きつった。
こちらがあえて意識して使った言葉を、きちんと返してくれるのが嬉しかった。
だめだ。
身体中が脈打つ。
こうなったらもう、認めざるをえない。
神楽坂恭太という人間に、いよいよ本気になっていることを。
そして認めてしまったら、もう自分を止めることはできないだろう。
それは今までの経験からよくわかっていた。
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