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接近 03
神楽坂がふらりとバイト先の店に現れたのは、あのドライブから10日ほど経ったころだった。
すでに店内は締め作業に入っており、レジ横に配置しているマドラーやガムシロップを補充しているとき、頭上から声をかけられたのだった。
「スマイルくださいな」
ゆったりとした声のトーンをうなじあたりに受け取った時、なんともいえない感情が迫り上がってきて、歩はすぐに顔を上げられなかった。
体勢を戻しても彼の顔は見ずに、目の前にある喉仏を一瞥してから作業を続けた。
「スマイルは販売しておりません」
「じゃあどうやったらもらえますか?」
ガムシロップの入っていたビニール袋を手のひらで丸めながら、初めて神楽坂の顔を見た。
頬や高い鼻筋、耳たぶまでもがうっすらと赤く染まっている。
こちらの不機嫌に動じることもなく、目が合うとまるで愛玩犬でも見るように嬉しそうに細めた。
瞳は潤んでいて、少し酔っていることはあきらかだったが、その顔を見たら、悔しいことに怒りがすっと引いていくのだった。
「もう、来ないかと思った……」
手のひらのビニールを何度も握りながら呟いた。
「連絡しなくてごめんね」
できなくてではなく、しなくて、という言い回しに、彼の強い意志を感じた。
そんな細かい言い回しにさえ落胆して、歩は唇を固く結んだ。
「……お酒飲んでる?」
「あー、うん。仕事でちょっとしたパーティーがあって、少し飲んできた」
パーティーというものがよくわからないが、彼の服装はいつもと変わらないので、そんなにかしこまったものでもないのだろう。
神楽坂は頬に手を当てて自身の火照り具合を確かめながら、照れたように笑った。
「酔ったら、歩の顔見たくなっちゃった」
鼓動が、制服のシャツを突き破ってしまいそうなくらいに激しく音を立てた。
唇を突き出し、不機嫌な顔を繕うことで、どうにか踏ん張るが、こちらの動揺などとうに伝わっているのだろう。
——こちらの気持ちを知っているくせに、からかって楽しんで。
「外で待ってていい?」
しかし、神楽坂からの誘いは喜びの塊となって転がり、散らばったままの不満を粉々に砕いてしまった。
「もう上がりだから、5分後に行く」
「うん」
嬉しそうに頷かれて、歩は完敗した。
相変わらず、こちらの意図やペースを狂わせる。
10時を回ると、歩は手洗いもそこそこに、慌ててスタッフルームの扉を開けた。
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