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甲と乙 01
「わざわざありがとうー!」
松木が片手を振りながら、小走りで近づいてくる。
廊下の端まで歩き切ると、彼女はカードキーでドアを開けて、社内へと誘導してくれた。
前回は総合受付と地下スタジオにしか入らなかったから、オフィスに入るのはこれが初めてだ。
広いフロアいっぱいにデスクが並んでいる。通路をすり抜けると、部屋の隅に打ち合わせ用らしきフリースペースがあり、その一角に座るよう促された。
「ごめんねー、来客用の会議室埋まってて。座って待ってて」
松木がいなくなると、歩は座席から腰を浮かして、彼女の戻っていった方を見た。
松木のデスク周辺には誰も座っていない。目当ての姿を見つけられず、期待がしぼみ、力が抜けた。
ふたたび腰を下ろすと、間もなく松木も書類と本を抱えて戻ってきた。
「はい。見本誌。直接来てくれるっていうから、ちょっと時間経っちゃったけど」
『Caesar』という文字と、コーディネートを置き撮りした写真、それに「おとなの冬支度」という、キャッチなのか特集名なのかわからない文字が載った、シンプルな装丁だった。
手に取り、ページをめくると、写真の中の自分と目が合って、慌てて閉じた。
「なんで閉じるの〜」
「めちゃめちゃ恥ずかしいです……」
あの時は必死だったが、冷静になってみると直視できない。ふたたびページをめくってはみるが、やはり全部開くことはできなかった。
「えー、同期からもめっちゃ評判よかったよ。見本誌届いた日、さっそくメール来たもん。『あのモデルの子、誰?』って」
「あまりにも素人くさかったからじゃないんですか……」
「違う違う。かっこいいってこと。問い合わせてきたのが『ONe』の編集部にいる子でさー、読モ探してるみたいで、土屋君のこと紹介してって言われたんだけどね。神楽坂さんがさー……」
突然出た神楽坂の名前に反応して、雑誌に落としていた視線を上げた。
「神楽坂さんが、どうしたんですか?」
「いやー、神楽坂芸能事務所からお許しがでなかったんだよー。土屋君を『ONe』で使うのはダメって」
ふたたび視線をずらしてデスクの一帯を見たが、やはりその姿はない。
歩は、雑誌のページをいたずらにめくりながら、気持ちをどうにか落ち着けようとした。
「俺じゃ……力不足だからじゃないですかね」
松木は手のひらを振りながら、おかしそうに笑った。
「違うよー。あのおじさん、よくわかんないとこで独占欲強いの。言ったでしょ、土屋君のことお気に入りだって」
「なにそれ。変なの……」
ほんと変だよね。
松木の声が、遠くから聞こえてくるようだった。
『ONe』はダメというその言葉には、彼の感情や独占欲がにじみ出ている気がして、歩は久々に、少しだけ浮上するようだった。
そんなところで妙な欲を出すのなら、こちらがいちばん求めているときに応えてくれればいいのに。
「神楽坂さんは、今日いないんですか」
「あー、うん。終日外出みたい」
決定的な言葉を受け取り、松木に気づかれないよう密やかに、落胆のため息を吐いた。
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