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神楽坂のマンションを出たあの後、肉体はタクシーによって自宅まで運ばれたが、感情は迷子のまま、戻ってきていない。
メッセージを入れても神楽坂からの返信はないし、試験前でバイトのシフトも入れていなかったから、会えずじまいだった。
肉体を置き去りにしたまま、神楽坂を求めて、意識だけがふわふわと漂っているような日々を過ごしていたのだ。
だから、松木から「支払い関係と契約書についてやりとりをしたい」という連絡がきたときは、彼に会えるチャンスだと思った。それから約束の日までの間、歩は緊張で常に力んだ状態だったのだ。
しかし、そのチャンスすらも虚しくすかしてしまい、今日で約2週間は会っていないことになる。
渡された契約書に視線を落として滑らせるが、明朝体は紙に貼りついたまま、内容となって頭に入ってくることはなかった。
何度読んでも、途中で脳が理解するのを諦めてしまう。
甲がー、乙がー、その他ナンチャラ……
「最新号、売れるといいなあ……」
契約書を睨みつけていると、松木がぽつりと呟いた。
なんとも気弱な声につられて、歩も顔を上げる。
「売れるんじゃ、ないんですかね……?」
「ほんとにねー。そろそろ結果出さないと、けっこうやばいんだよなぁ……」
松木はそのまま、テーブルに突っ伏してしまった。
要は、今まではうまくいっていなかったということだろうか。
「神楽坂さんに、怒られちゃったりするんですか……?」
「違う、逆。神楽坂さんが怒られちゃうの」
歩の返事を待たずに、松木は頬杖をつき、顔を上げた。
「うちの媒体ってね、ウェブファーストなの。前もチラッと話したけど、基本はウェブマガジンみたいな感じでコンテンツを発信してて、季刊で紙も出してるんだ。まあウェブと紙を両方やるのは今はもう基本だし、他部署でも一緒なんだけどね。『Caesar』はユーザー課金システムを取り入れたり、広告収入の仕組みをほかとは変えて、いろいろ基盤をつくったの。でもいざ媒体を立ち上げてみると、課金システムもあんま軌道に乗ってなくて、ウェブコンテンツで売り上げを立てるのがなかなか難しいんだ。紙もあまり実売取れてなくてね……。ネームバリューがないから広告もあまり入んないし——。つまり、続けていくには、広告でお金を稼ぎながら雑誌を一般読者に買ってもらわなきゃいけないんだけど、まだなかなか難しいんだ。『Caesar』単体で部としての売上が立たないから、神楽坂さんはほかの書籍もやったり、タイアップ仕事したり、何でも屋状態なの」
「そうなんですか……」
松木は気にせずに喋り続けた。
歩のような存在は、弱音を吐くのに都合がいいのかもしれない。
「うちって、社名にマガジンって入ってるでしょ。その名の通り、雑誌をすごく大切にしてる会社なんだけど、やっぱり雑誌ってどんどん売れなくなってきてて、ほかで利益を出していかないと儲からないんだ。そこで神楽坂さんが『Caesar』立ち上げたの。新しいことをやりながら雑誌文化を存続させていくんだって」
松木の目はいつのまにかキラキラとしていた。
悩みながらも希望を持って取り組んでいるのがよくわかる。
「『Caesar』の編集部は何人いるんですか?」
「神楽坂さんと私と、山辺君っていう男の子の3人。山辺君はもともとウェブ関係の部署にいて、私はライフスタイル出版部っていう、書籍を出すところにいたの。当時、神楽坂さんはそこの編集長」
「前も神楽坂さんと同じ部署だったんですね」
「うん。私さ、新卒で入ってずっとティーン誌の編集してて、3年前にライフスタイル出版部に来たの。書籍ってさ、基本、1人でまるまる一冊担当するから、売上とかの全責任が自分にあるわけよ。ひとつの本を複数でつくる雑誌とは全然やり方も違うし、ライフスタイルとか、まったくの畑違いだったから、著者さんとのつながりとかも全然なくて。企画もまったく通らなくてねー。辛いな、辞めたいなって思っていたところを、色々助けてくれたのが神楽坂さんだったんだ」
神楽坂を語る松木の表情は、なぜか恍惚としていた。
「企画が通るようにアドバイスしてくれたり、会議で根回ししてくれたりしてね。失敗したら俺が責任取るから、とりあえず松木のやりたいようにやってみろって。神楽坂さんがいなかったら、降ってくることだけ淡々とやって、やりがいもなくなって——たぶん辞めてたと思う。だから、まだ全然だけど、神楽坂さんにはいつかちゃんと恩返ししたいんだー……」
その瞳には、尊敬以上のものが浮かんでいる気がして、歩はあわてて目を逸らした。
見てはいけないものを、盗み見してしまったような気がしたのだ。
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