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「だからね、土屋君。神楽坂さんのことたまに慰めてあげてね。ただでさえ社内に敵だらけで、今度の経営会議でも血祭りに上げられちゃうから」
歩は顔をしかめた。
敵だらけとは、どういうことだろうか。
人当たりが良くて、ユーモアがあって——とても敵をつくるタイプのようには見えない。
「神楽坂さんって、敵いるんですか?」
松木は吹き出して、手のひらをひらひらと振った。
「いるよー。あの人、自分の意見曲げないし、結構ワンマンだからね。でもきちんと成果出してて出世してるから、嫉妬もされてるし。部署の立ち上げ時にも、私と山辺君のことを強引に引き抜いたもんだから、それぞれの部署からブーイングが出て、風当たり強い強い。うまくいかなければいいって思ってる人も多いんだ、たぶん」
——意外だった。
神楽坂からはそんな気配、まったく感じなかったからだった。
やはり、会社という組織に属している限り、多少にかかわらず妬み嫉み、蹴落とし合いはあるのだろう。歩の小さな世界——アルバイト先のファストフード店にも嫌な社員はいるし、学校にはそりの合わない同級生もいる。
しかし、その比ではないストレスが、神楽坂にはかかっているのだろう。
「ごめんね。いきなり内部事情暴露しちゃって」
「いえ。俺に手伝えることあったら言ってください。お金とか別にいいんで」
「あ、言ったね〜?」
松木がおどけて指差してきたので、歩は口角を上げた。
すると背後から女性社員が近づいてきて、松木の肩を叩いた。
声をかけてきたのは経理関係の部署なのだろう、原稿料の計算がなんたら、という話をしている。
話し込むうちに松木は頭をかいてため息をついた。女性社員は、彼女の落胆を励ますどころか豪快に笑い飛ばし、ドンマイと一言残して去っていった。
「まただ〜。神楽坂さんの担当分、請求書とシステム入力したやつの金額が合ってないんだって。神楽坂さんいないから、結局、また私が尻拭いだよ……」
「大丈夫ですか?」
またということはこういうことが度々あるのだろう。
「神楽坂さん、ほんとこういうとこ大雑把なんだよねー。O型っぽさが出る感じ」
「え……?」
歩が顔を上げる前に、松木は立ち上がり、詫びるように片手を上げた。
「ごめんね。4時までに修正しないとだめらしいから、書類書いてて!」
そう言い残して、黒いパンプスのヒールの音を響かせながら、デスクに戻ってしまった。
ふたたび契約書に目を通すが、いろんな雑念が邪魔をして、やはり集中できない。何度文字を追っても、甲と乙がぐるぐると、頭蓋骨のふちをなぞるようにして回るのだった。
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