甲と乙 02

1/1
前へ
/131ページ
次へ

甲と乙 02

帰り道、電車に揺られながら、歩はメッセージアプリを起動し、打ちかけては何度も消した。 伝えたいことはたくさんあるが、どうやってもうまく伝わらない気がした。 結局、悩んだ挙句、 「今日、恭ちゃんの会社に行って松木さんから見本誌もらったよ。まわりに宣伝しておきます! 仕事、無理しないで頑張って」 という、当たり障りのないことを打って送った。 最寄駅に着き、除菌シートで手を拭いていると、神楽坂から着信が入って、濡れたままのシートを慌ててズボンのポケットに押し込んだ。 「もしもし? 恭ちゃん?」 帰宅ラッシュの時間帯だから、人通りも多い。邪魔にならないよう構内の壁際に寄った。 「今日、わざわざ来てくれたんだってね。いなくてごめん」 心なしか、声に元気がないような気がした。 「うん、本当は会いたかった」 言うと、向こうで沈黙してしまった。困らせたいわけではなかったから、歩は口調を明るくして発した。 「俺、宣伝するからね。バイト先の店長とかにも『Caesar』勧めておく。SNSにも書くし……自慢じゃないけど、フォロワーもそれなりにいるからさ!」 「松木さんがなんか言った?」 「ううん、別に。単純に恭ちゃんの作った本、たくさん売れて欲しいから。俺にはそんなことぐらいしかできないし」 神楽坂が、電話越しにひっそりと笑った。 ホームに電車が到着したのだろう。足元から轟音がして、彼の息遣いや気配をかき消してしまう。 ひとまず改札を抜けてしまおうと、ポケットからカードケースを出したところで、神楽坂が呟いた。 「歩は可愛いね」 ケースを地面に落としてしまい、慌てて拾い上げた。 そんなふうに優しく言われることはもうないと思っていたから、それだけでなんだか胸がいっぱいになってしまう。 しかし、満たされたものは空気のように実体がなく、あっというまに引いていった。 そして、新たな欲が湧き出てくる。 「俺、全然冷めてないよ。この2週間、ずっと恭ちゃんのこと考えてた」 神楽坂からの返答を期待したが、彼の息はくぐもったまま、言葉にはならなかった。 「会いたい……」 それでも、熱い息を吐き出しながらゆっくり言った。 実際に声に出してぶつけることで、鬱鬱とした感情が少し晴れるような気がした。 やはり、彼からの返事はない。 「でも、困らせたくないから……我慢する」 沈黙が続くのが怖くて仕方なく言うと——神楽坂はようやく笑った。からからとした、久々に聞く明るい声だった。 「近々、バイト先に行くよ」 「ほんとに? 絶対?」 念を押すと、神楽坂はまた電話越しに笑った。 「俺も、顔見たいから」 改札から同じ制服を着た男女がまとまって入ってきて、歩は壁に向き合い、表情を隠した。 顔中の筋肉が弛緩して、さぞだらしなくなっているに違いない。 近いうちっていつだろう。 今週? 来週? 「うん。待ってる」 聞き返したかったが、しつこいと思われたくなかったので、無難な返事にとどめておいた。 電話を切り、長く息を吐いた。冷たい空気が体内を抜け、熱を帯びた部分が疼いた。
/131ページ

最初のコメントを投稿しよう!

798人が本棚に入れています
本棚に追加