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甲と乙 02
帰り道、電車に揺られながら、歩はメッセージアプリを起動し、打ちかけては何度も消した。
伝えたいことはたくさんあるが、どうやってもうまく伝わらない気がした。
結局、悩んだ挙句、
「今日、恭ちゃんの会社に行って松木さんから見本誌もらったよ。まわりに宣伝しておきます! 仕事、無理しないで頑張って」
という、当たり障りのないことを打って送った。
最寄駅に着き、除菌シートで手を拭いていると、神楽坂から着信が入って、濡れたままのシートを慌ててズボンのポケットに押し込んだ。
「もしもし? 恭ちゃん?」
帰宅ラッシュの時間帯だから、人通りも多い。邪魔にならないよう構内の壁際に寄った。
「今日、わざわざ来てくれたんだってね。いなくてごめん」
心なしか、声に元気がないような気がした。
「うん、本当は会いたかった」
言うと、向こうで沈黙してしまった。困らせたいわけではなかったから、歩は口調を明るくして発した。
「俺、宣伝するからね。バイト先の店長とかにも『Caesar』勧めておく。SNSにも書くし……自慢じゃないけど、フォロワーもそれなりにいるからさ!」
「松木さんがなんか言った?」
「ううん、別に。単純に恭ちゃんの作った本、たくさん売れて欲しいから。俺にはそんなことぐらいしかできないし」
神楽坂が、電話越しにひっそりと笑った。
ホームに電車が到着したのだろう。足元から轟音がして、彼の息遣いや気配をかき消してしまう。
ひとまず改札を抜けてしまおうと、ポケットからカードケースを出したところで、神楽坂が呟いた。
「歩は可愛いね」
ケースを地面に落としてしまい、慌てて拾い上げた。
そんなふうに優しく言われることはもうないと思っていたから、それだけでなんだか胸がいっぱいになってしまう。
しかし、満たされたものは空気のように実体がなく、あっというまに引いていった。
そして、新たな欲が湧き出てくる。
「俺、全然冷めてないよ。この2週間、ずっと恭ちゃんのこと考えてた」
神楽坂からの返答を期待したが、彼の息はくぐもったまま、言葉にはならなかった。
「会いたい……」
それでも、熱い息を吐き出しながらゆっくり言った。
実際に声に出してぶつけることで、鬱鬱とした感情が少し晴れるような気がした。
やはり、彼からの返事はない。
「でも、困らせたくないから……我慢する」
沈黙が続くのが怖くて仕方なく言うと——神楽坂はようやく笑った。からからとした、久々に聞く明るい声だった。
「近々、バイト先に行くよ」
「ほんとに? 絶対?」
念を押すと、神楽坂はまた電話越しに笑った。
「俺も、顔見たいから」
改札から同じ制服を着た男女がまとまって入ってきて、歩は壁に向き合い、表情を隠した。
顔中の筋肉が弛緩して、さぞだらしなくなっているに違いない。
近いうちっていつだろう。
今週? 来週?
「うん。待ってる」
聞き返したかったが、しつこいと思われたくなかったので、無難な返事にとどめておいた。
電話を切り、長く息を吐いた。冷たい空気が体内を抜け、熱を帯びた部分が疼いた。
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