798人が本棚に入れています
本棚に追加
あなたはずるい 01
それから数日は、アルバイトに入るたびに落ち着かなかった。
一度帰宅してから私服——それも適当ではないものに着替え、また、交通手段は自転車ではなく徒歩を厳守していた。
上がり時間が近づくと、入り口の自動ドアが開くたびに身構えては、落胆する。
そして本当の上がり時間になると、いよいよ肩を落として家路に着くことが数回続いた。
神楽坂はちっとも現れない。
やはり、あれは社交辞令だったのだろうか————
「つっちー、最近ぼーっとしてない?」
電話をしてから1週間が過ぎ、緊張感も抜けてきたある日、来海が顔を覗き込んできた。
「え? そう? 寝不足だからかな」
言いながらあくびをすると、腕で小突かれた。
「まあ暇だもんね」
今日は休日にも関わらず客入りが少ない。カウンターの前に立っているとつい気が緩んで、生あくびばかりが出た。
歩はダスターを手に取ると、来海にレジを任せて客席の清掃に向かった。
清掃といっても、消毒用アルコールをテーブルに吹きかけてダスターで拭き上げ、下に落ちているゴミを拾うくらいだ。ただ立っているよりかは動き回っていたほうが時間の経過も早く感じるし、眠気覚ましにかるから、率先して担った。
テラスには子供用の遊具が設置されていて、その近くの席は子連れ客が多いため、テーブルの下にゴミが落ちていることが多い。
ホウキで食べかすや紙屑を集め、ちりとりに入れていると、背後から声をかけられた。
「すみません」
立ち上がって振り向くと、即席に繕った営業スマイルは途端に消失した。
振り向いた瞬間、目に映ったのは白い喉仏だったが、誰のものかはすぐにわかった。
あまりにも眩かったからだ。
「びっくりした?」
目を見開いた歩を見て、玄は嬉しそうに笑った。
「びっくりするよ!」
以前、彼から「再来週、デートしよー」と言われたものの、実際には実現しなかった。なんでも最近は半日以上、時間の空くことが少ないそうで、天候などで仕事のスケジュールが変わることも多いらしい。
受け身のままなんとなくスケジュールを先延ばしにできて、歩は内心、安堵していた。
何せ彼は売れっ子モデルだ。
貴重な時間を、東京郊外に住む平凡な高校生にあてる余裕などないはずだ。デートなんてものはどうせ実現せず、このままフェードアウトするだろう————
メッセージのやりとりが途絶えてから1週間が経ち、たかをくくっていたが、今この瞬間にあっさりと崩壊した。
「俺、明日の朝10時までフリーなの。映画付き合ってよ」
「え? これから?」
今はすでに夜の9時半だ。
これからどこに行くというのだろう。
「うん。オールナイト上映の映画あるから」
「え、うーん……」
今日は土曜日だから、学校を理由に断ることはできない。
なにより、本人を前にすると、はっきりと拒絶することができなかった。
ホウキを手にしながら立ち尽くしていると、玄は急かすように腕を掴んできた。
「なんか飲みながら待ってるから、歩がレジ打ってー」
「え? ちょっと待ってよ」
レジまわりの備品補充をしていた来海の目が、歩と、隣にいる玄を捉えた瞬間——絶叫が響き渡った。
来海はその後、レジ打ちをする歩の背後で、彼の頼んだコーヒーを用意してくれた。カップをトレイに置く時、彼女の指先は震え、玄から「あ、砂糖は大丈夫です」と言われた時なんて、声がひっくり返っていた。
彼が奥の席へと消えていくと、来海に腕を引っ張られ、バックヤードへと連行された。
「ちょっと、なんでここに玄がいるの!?」
彼女の鼻息の勢いで、前髪が揺れそうだった。
「ああ、ちょっとした知り合いなんだよね。クルミちゃん、玄のこと知ってるんだ」
「知ってるに決まってんでしょ! この前『mellow』のMVに出てたじゃん。ってかなに、なんで友達なの!? つっちー何者!?」
『mellow』とは、来海の好きな男性グループのバンドだ。歩は代表曲をかろうじて知っているぐらいだから、MVの内容までは把握していない。
捲し立てられるように言われ、たじろいでしまった。
「入ってきたときからわかったよ。頭身が一般人じゃないもん! はー、やっぱりモデルはコーヒーに砂糖入れないんだねぇ……」
「おばあちゃんみたいなこと言うなよー」
なぜか来海は変なところで感心しながら背伸びをし、衝立の向こうに座る玄を見つめた。
それからは歩も彼女も、ますます実務に身が入らなくなった。
最初のコメントを投稿しよう!