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定刻になるなり、来海に「玄を待たせるな!」と急かされ、慌ただしく身支度をした。
彼女とは同時刻に上がるのだが、今日はひとつしかない更衣室を先に貸してくれた。待たせるも何も約束などしていないし、第一、誘いの返事はまだしていないのだが——とりあえず彼の座席までは行かなねばならない。
着替えをすませると、いつもの従業員用入り口からではなく、店内に戻った。
玄はまだ席に座っていた。頬杖をつきながら窓の外を眺めている——ただそれだけなのに、まるで一枚のポートレートを見ているような錯覚に陥った。
近づくと顔を上げた。彼の手元には書店に並び始めたばかりであろう『Caesar』があり、挨拶よりもまず先に——喉から搾り出されたような濁音がこぼれたのだった。
玄は折り目をつけてあった箇所を開くと、悪気なくニコニコと笑った。
「歩、やっぱりモデルだったんじゃん」
歩は慌ててページを閉じると、人差し指を唇にあてた。
『Caesar』に自分が出ていることは家族と三月以外には、まだ誰にも言っていない。ぎこちないすまし顔を浮かべた自分を、知人友人に見られることを想像すると——まだ躊躇のほうが大きかったからだ。
「モデルじゃないよ。たまたま流れでやっただけだから、これ一回きり」
「そうなの? カッコいいよ。大人っぽく見える」
現役モデルに言われても、素直に喜ぶことなどできない。ハリウッドスターから学芸会での演技を褒められたような——子ども騙しな感覚だ。
「大人っぽいで思い出したけどさ、最初、俺のこと子どもだと思ってなかった?」
迷子かと聞かれて誘導されたときの記憶が、ふと鮮明に蘇った。
「思ってないよ。白川の制服着てたじゃん」
「そうだけどさ……」
「可愛くて気になったから、声かけただけだよ」
歩はむっつりと黙り込んだ。
彼の答えはまったく理屈が通っていなかったが、それ以上言及する気にもなれなかった。
「とりあえず、行こ」
玄は雑誌を丸めると、歩に持っていろとばかりに渡してきた。それを鞄に詰め込みきらぬうちに、腕を掴まれてしまう。
友人というには近すぎる距離感を保ったまま、レジ前を通過するときは慌てた。10時を過ぎると、ホール対応のスタッフが少なくなるため、店長が常にキッチンとレジの間を行ったり来たりしていたからだった。
そして、ドアを開けて外に出ると、玄は当たり前のように手を繋いできた。
「ちょっと……」
躊躇ったところで、解かれる気配はなかった。
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