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学校の教室ほどの広さしかないエントランス中央まで引き返すと、スマートフォンを取り出した。
着信も、メールも入ってはいない。
歩は長く息を吐きながら機械的に指を動かした。電話履歴を開いて神楽坂の名前を探し、吐き切る前に発信する。
新たな空気を吸い込んでしまったら、躊躇が体内に入り込んできてしまう気がした。
息を吸いながら、呼び出し音を耳で拾う。
出てほしい。出てほしくない——花占いのように真逆な感情が、コール音の合間にひらひらとひっくり返り、歩を弄んだ。
呼び出し音だけは抑揚なく、一定のリズムで鳴り続ける。そろそろ留守電に切り替わるだろうというタイミングでスマートフォンを顎まで下げかけると、呼び出し音が途切れた。
「はい」
それは想定していた自動音声ではない、温度のある声で——慌てて耳にあて直した。
「恭ちゃん……。さっきはごめん」
熟慮している暇などなかったから、第一声から感情のままに発した。
「なんで謝るの。歩は別に悪いことしてないよ」
その穏やかな声は最大の拒絶にも思えて、自然と背中が丸まった。
次に続く言葉が、なかなか思い浮かばない。
「今どこにいるの。玄君も一緒なんでしょ? 待たせてていいの?」
「桜町の映画館……。先に入ってもらったから」
中途半端にごまかしてもどうせ見透かされてしまうだろうから、素直に答えた。
しばらく沈黙が続き、その間に秘められた神楽坂の真意を必死に読み取ろうとする。
「——似合ってたね」
歩の拙い詮索を打ち消すように、突然、神楽坂が言った。
「え?」
「ふたり。並んで歩いてるとお似合いだったよ」
彼の言葉に皮肉めいたものは込められていなかった。
じわじわと追い込まれる。せめて、今の発言に嫉妬が少しでも滲み出てさえいれば、歩の心情ももう少し穏やかだっただろう。
「なんでそういうこと言うの……。俺は恭ちゃんと————」
「俺よりも彼のほうが、歩には似合ってるよ」
神楽坂は、きっぱりと言い放った。
嗚咽が込み上げてきそうで、しばらくは唇を噛み締めるしかなかった。
「似合ってなくても……釣り合ってなくても、恭ちゃんがいい」
深呼吸をしてからゆっくり発したが、やはり泣きそうになって、声がくぐもってしまった。
「歩の望むようなことは、俺はしてあげられないから」
ゆっくりと、一文字ずつ輪郭をなぞるようにして言われた。
その穏やかな口調は、とてつもない威力で歩を突き放す。2度目となる拒絶の言葉は、初回以上に心を深く抉ったのだった。
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