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「ずるい……」
やっと一声、絞り出してから、壁に向き合って目を擦った。
正直、期待していた。彼の自分に対する思いは、少しは前進したのかと思っていたのだ。
「うん。ずるいよね」
涙が滲むが、辛うじて嗚咽を吐かずに踏みとどった。
鼻をすすったら、バレてしまうだろうか。
「歩の気持ちには応えられないくせに、連絡が来れば嬉しいし、健気なこと言われれば可愛いと思う。今でもやっぱり、君に会いたいし、癒やされたい」
「なら————」
しかし、歩が口を挟むのを、神楽坂は許さなかった。
「宙ぶらりんな状態が心地いいんだよ。あらゆる責任とか、君の希望とかからは目を背けて、刺激や癒やしみたいな、心地よい部分だけは味わっていたいって——。でもそれって、誠意もないし、ムシがいいよね。俺の君に対する気持ちは、つまりその程度ってこと」
とうとう、嗚咽が喉元まで込み上げた。
考えがまとまらない。ただ歩を襲うのは後悔ばかりだった。
自分が急に距離を詰めなければ、神楽坂が及び腰になることはなかったんじゃないか————
「でもね、歩だってそれなりに強かでしょ。玄君と映画に行ったのだって、君の意思。彼のことが嫌じゃないし、付き合う可能性はゼロじゃないと思ってる。だから会うんだよね」
「違う—————」
否定するものの、心の深層を突かれたようで、勢いが鈍った。
たしかに、嫌ではない。
神保町の喫茶店でストローを共有した時点で、自分が玄を根っから拒絶しているのではないことぐらい、自覚していた。
彼と並んでいるときの周囲の反応や羨望も、満更ではなかった。
しかし、両天秤にかけている気はない。天秤は最初からずっと、片方の皿に重心がかかっていた。
歩は、玄を利用したのだ。
神楽坂に嫉妬してほしいというくだらない願望のためだけに、幼稚な策略に彼を巻き込んだ。玄の存在が起爆剤となり、神楽坂が一歩踏み出してくれることをなにより望んでいたのだった。
そんなあざとさを、とうに見透かされていたのだろう。
「悪いなんて思ってないよ。それが歩のよさでもある。若いんだから出会いがあるのは当然で、少しでも惹かれるなら向き合ってみるべきだとも思うし。君には選ぶ自由があるんだから」
「なら俺は、恭ちゃんを選びたい……」
言うだけ無駄だとわかっていたが、食い下がってみた。
神楽坂は電話越しで、こちらをたしなめるように笑った。
やはり、言うだけ無駄だった。
「ありがとう。この年になっても若い子にそう言ってもらえて、嬉しいよ」
えらく他人行儀な言葉が頭のなかに響き、歩は——自分が想像していたよりも、彼がはるか遠くにいたことを思い知らされたのだった。
神楽坂はそれから、いくつか慰めのような言葉を並べていたが、耳には入ってこなった。
彼から打ちつけられた拒絶という杭は、束の間、あらゆる神経を麻痺させ、歩を呆然とさせた。
——感覚を取り戻したのは、電話を切ってしばらく経った後だった。
杭は容赦なく皮膚を引き裂き、生温い血を滴らせる。抜くことさえも許されない、壮絶な痛みだった。
歩は、壁に額をぶつけた。
新たな痛みを与えることで、胸に刺さった杭から目をそらしてしまいたかったのだ。
上映開始の案内が流れる。観客がすっかり入場してしまうと、歩はやっと、薄汚れた壁から体を離した。
よれてしまったチケットを一瞥し、座席を確認してから、肩で扉を押した。
薄暗い室内は、涙の跡を誤魔化すのにちょうどよかった。
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