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あなたはずるい 03
歩が席に着くなり、玄は小声で「大丈夫?」と聞いてきたが、こちらが一度頷くと、彼はそれっきり映画に見入ってしまった。
上映作品を把握しないまま入場してしまったため、今流れている映画のタイトルすらわからない。
せめて、派手なカーチェイスや大アクションでも繰り広げられていれば気も紛れたのだろうが、目の前で上映されていたのはたらたらと山場のない、実に退屈な大人の恋愛映画で、気持ちを切り替える手段にはならなかった。
玄がこちらに一切干渉してこないことが、唯一の救いだった。彼は食い入るようにスクリーンを見つめて、ストーリーに没頭しているようだ。
歩もしばらくスクリーンを眺めていたが、隣の空席に置いてあった紙袋が目に止まり、手を伸ばした。
すっかり水蒸気で蒸され、縮んだタコスを口に運ぶ。何かしていないとまた、深い悲しみがやってきそうだった。
空腹が満たされると、一応目で追っていた女優の顔がぼんやりしはじめた。眠りの波に揺られているうちにいよいよ意識は遠くなり、ぷっつりと途絶えた。
つかの間の、痛みからの解放だった。
———優しく肩を叩かれた時、まぶたをぴったりと覆っていた薄暗さはなくなっており、かわりに白熱灯の光が突くようにして入り込んできた。
すでにほかの客は退場してしまったらしい。
座席には自分達しかいなかった。
「ごめん、寝ちゃってた」
ちょっとうたた寝した、ぐらいの口調で言ったが、実際には始まってから朝方の今まで、5、6時間は眠りこけていたことになる。
手元にあったはずの紙袋や紙コップはいつのまにかなくなっていた。休憩時間に、玄が片付けてくれたのだろう。
「途中の休憩時間にもまったく起きなかったね」
玄は笑って、膝に置いたままの歩の手に、手を重ねてきた。
長い首が、木の葉を求めた草食恐竜のようにのびてくる。
「玄……」
歩は身を固くして、シートに後頭部を押し付けた。
こちらの動揺を悟っていないのか、それとも気にしていないのか——彼は臆することなく顔を押し付けてきた。
柔らかな、唇の感触。
歩は座席にぴったりと腰をつけたまま、彼から与えられるそれを大人しく受け取った。
虚しさや苦しさといった感情ごと、白い不織布で包みこまれるような——そんなキスだった。
唇を離したちょうどその時、スタッフらしき男性が清掃のため、館内に入ってきた。
何食わぬ顔で席を立った玄は、やはり草食恐竜のように長い首で、優しげな目をしながらこちらを見下ろしていた。
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