798人が本棚に入れています
本棚に追加
外へ出ると、空には分厚い雲が伸びていて——なんとも青味のない早朝だった。
玄は歩の手を取ると慣れた足取りで駅に向かって歩き始めたが、商店街の端まで来ると、ロータリーへと抜けずに、その手前の細い路地を曲がった。
彼が足を止めたのは、これまた古びた喫茶店だった。
一面に蔦が這った吹き付けの外壁は劣化しており、かかっている看板も縁が錆びついて色褪せている。
このまま通り過ぎていたら、恐らく廃墟と勘違いしたままだっただろう。
洗っていない水槽のように黄ばんで半透明に濁った窓ガラスには、看板と同じフォントで「喫茶 ニューサマー」と印字された乳白フィルムが貼ってあった。
ドアを開けると、大ぶりなカウベルの音が響き、玄はカウンターに向かって手を振った。
「あー、玄ちゃん!」
店主の男性は、頭こそ白髪になってはいるが、歩の父親とそう変わらない年に見える。
まだ案内されてもいないのに、玄は店の奥にあるボックス席まで当然のように歩いていき、腰掛けた。
間もなく水を持って近づいてきた店主は、まるで長年会っていなかった息子でも見るかのように、元々細い目をさらに細めている。
「久々だね。忙しいの?」
「うん、やっとね。でもまだモデル仕事ばっか」
対し、玄はまるで同世代に振る舞うかのように、店主に親しげに話しかけている。
ふたりが気心の知れた仲だということは、先ほどの挨拶のやりとりだけでわかった。
「最近、玄ちゃんのファンの子が店に来るんだよ。テレビとか雑誌でなんか言った?」
「あー、SNSでこの店のこと書いたからかなぁ?」
「ああ、インターネットね! とにかくみんな『玄の特等席ってどこですか?』て聞いてくるからさ、すぐわかるんだよ」
店主は水を置く際、こちらに視線を投げてきて、詮索するような態度を見せた。
一見、モデル仲間でも同級生でもなさそうな歩との関係性に興味をもったのだろう。しかし、追及してくることはなかった。
「歩、飲み物は何にする?」
玄にドリンクメニューを差し出され、一番最初に入り込んできた文字を読み上げた。
「あ、じゃ……オレンジジュース」
店主は歩のオーダーだけを聞くと、カウンターの奥に引っ込んでいってしまった。
「行きつけなの? この店」
「高校生の時、さざんかでオールナイト観て、ニューサマーでモーニングして帰るのが定番コースだったんだ」
——そういえば、先程の映画館でもスタッフと親しげに談笑していた。
彼もこの近くの高校に通っていたのだから桜町に詳しいのは当然だが、店のチョイスがいちいち渋すぎる気がする。
歩なんかは、こういう個人経営の店なんかは気後れしてしまい、ひとりだとなかなか入れない。
何せ玄のことだから、昔から物怖じしないのだろうが。
最初のコメントを投稿しよう!