あなたはずるい 04

1/1
前へ
/131ページ
次へ

あなたはずるい 04

店を出ると、玄はあくびをしながら伸びをして、隣に並んできた。 駅まではもうすぐそばだが、なかなか歩き出さない。 「歩の好きな人ってどんな人なの」 首をやや傾げながら、見下ろしてきた。 「……すごく、年上の人」 「うまくいってるの?」 「いや。気持ちには応えられないって、もう2回もふられてる」 神楽坂の顔がふと浮かんで、涙ぐみそうになった。 言葉に出すと、昨日彼から放たれた一字一句が全身を刺してくるようだった。 「歩」 すると、手を取られ、ビルとビルの隙間に押し込まれた。 返事をする余裕もないまま壁に押し付けられ、キスをされる。 催促するように舌先で歯を突かれ、しばらく棒立ちになっていたが、しばしの躊躇のあと、ゆっくりと受け入れた。 「……っ」 玄の侵入を許した時、神楽坂から言われた一言が、歩の頭の中をよぎった。 彼は自分を強かだと言った。 その通りだ。今だって神楽坂のことを思い出して感傷に浸りながらも、ねだられれば簡単に口を開けている。他人を利用して、いちばん心地の良い方法で、自分を甘やかしているのだから———— 行為を受け入れ、されるがままになっていると、玄の息がだんだん荒くなり、耳に唇を擦り付けられた。 そして、熱い息が差し込まれる。 「エッチしたいなー……」 だめ?と聞かれながら耳たぶを食まれたときは、一瞬、自暴自棄にもなりかけたが、思い直して首を左右に振った。 「やっぱセフレになりたいんじゃん」 歩は身を捩って彼から体を離した。 安易にキスに応じてしまった気恥ずかしさもあり、先に通りに出ようとすると、ふたたび手を取られた。 「あのさ、きちんとしたことは言えないけど——今、時間ができた時にいちばん『会いたいなー』って思う相手は歩だからね?」 歩は口をつぐんでしまった。 彼から、おそらく彼なりに精一杯であろうそれらしい言葉を、初めて受け取ったからだった。 「俺は、好きな人が————」 「でも、俺のことだって嫌いじゃないでしょ? ならいいよ。気にしない」 玄から発せられる気持ちは、塊ではなくパーツのようで、まるでまとまりがなかった。手のひらに落とされても、繋げることも、落とすこともできず、ただ握りしめることしかできない。 「なにそれよくわかんない。玄は結局どうしたいの?」 「時間ができたら会ってほしいし、俺といる時は俺を好きでいてほしい」 歩は大袈裟にかぶりを振ってよろめいた。 「ちょっとわかんない。それって普通の感覚じゃないし」 彼との会話はやはり空気を掴むようで、困惑するだけだった。 ——歩が先に通りを出ると、まもなく彼もついてきた。中央にある柱時計は8時を指しており、人通りもそれなりにある。 玄はどうやって帰るのだろうか。 ロータリーまで来て、改めて彼を見た時——歩は一瞬、呼吸を止めてしまった。 「玄?」 名を呼ぶと、彼はとりあえず笑ったが、表情には陰りがあった。先ほど、喫茶店でふと見せたものと、同じ———— 「普通ってなんだろーね」 「え?」 何の話だろう——一瞬 、考えた。 まさか彼が、まだそこにこだわっているなどとは、思いもしなかったからだ。 黙ったままでいると、彼は短く笑った。 「なにが普通かなんて、もう忘れちゃったな」 ふたつの錆色は、焦点が定まっていない。 歩には一瞬、彼が機械仕掛けのなにかのように見えた。 「芸能界(こっち)入って、俺が一番最初に手放したものがそれだから」 ぼんやりとしていたのは束の間のことで、やがて目に力が戻った。 しかし、その錆色はどこか寂しげに沈んでいるのだった。 彼の、無造作にまとめた髪が風に乗ってなびき、そのほの甘い微香に、胸が痛んだ。
/131ページ

最初のコメントを投稿しよう!

798人が本棚に入れています
本棚に追加