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あなたはずるい 04
店を出ると、玄はあくびをしながら伸びをして、隣に並んできた。
駅まではもうすぐそばだが、なかなか歩き出さない。
「歩の好きな人ってどんな人なの」
首をやや傾げながら、見下ろしてきた。
「……すごく、年上の人」
「うまくいってるの?」
「いや。気持ちには応えられないって、もう2回もふられてる」
神楽坂の顔がふと浮かんで、涙ぐみそうになった。
言葉に出すと、昨日彼から放たれた一字一句が全身を刺してくるようだった。
「歩」
すると、手を取られ、ビルとビルの隙間に押し込まれた。
返事をする余裕もないまま壁に押し付けられ、キスをされる。
催促するように舌先で歯を突かれ、しばらく棒立ちになっていたが、しばしの躊躇のあと、ゆっくりと受け入れた。
「……っ」
玄の侵入を許した時、神楽坂から言われた一言が、歩の頭の中をよぎった。
彼は自分を強かだと言った。
その通りだ。今だって神楽坂のことを思い出して感傷に浸りながらも、ねだられれば簡単に口を開けている。他人を利用して、いちばん心地の良い方法で、自分を甘やかしているのだから————
行為を受け入れ、されるがままになっていると、玄の息がだんだん荒くなり、耳に唇を擦り付けられた。
そして、熱い息が差し込まれる。
「エッチしたいなー……」
だめ?と聞かれながら耳たぶを食まれたときは、一瞬、自暴自棄にもなりかけたが、思い直して首を左右に振った。
「やっぱセフレになりたいんじゃん」
歩は身を捩って彼から体を離した。
安易にキスに応じてしまった気恥ずかしさもあり、先に通りに出ようとすると、ふたたび手を取られた。
「あのさ、きちんとしたことは言えないけど——今、時間ができた時にいちばん『会いたいなー』って思う相手は歩だからね?」
歩は口をつぐんでしまった。
彼から、おそらく彼なりに精一杯であろうそれらしい言葉を、初めて受け取ったからだった。
「俺は、好きな人が————」
「でも、俺のことだって嫌いじゃないでしょ? ならいいよ。気にしない」
玄から発せられる気持ちは、塊ではなくパーツのようで、まるでまとまりがなかった。手のひらに落とされても、繋げることも、落とすこともできず、ただ握りしめることしかできない。
「なにそれよくわかんない。玄は結局どうしたいの?」
「時間ができたら会ってほしいし、俺といる時は俺を好きでいてほしい」
歩は大袈裟にかぶりを振ってよろめいた。
「ちょっとわかんない。それって普通の感覚じゃないし」
彼との会話はやはり空気を掴むようで、困惑するだけだった。
——歩が先に通りを出ると、まもなく彼もついてきた。中央にある柱時計は8時を指しており、人通りもそれなりにある。
玄はどうやって帰るのだろうか。
ロータリーまで来て、改めて彼を見た時——歩は一瞬、呼吸を止めてしまった。
「玄?」
名を呼ぶと、彼はとりあえず笑ったが、表情には陰りがあった。先ほど、喫茶店でふと見せたものと、同じ————
「普通ってなんだろーね」
「え?」
何の話だろう——一瞬 、考えた。
まさか彼が、まだそこにこだわっているなどとは、思いもしなかったからだ。
黙ったままでいると、彼は短く笑った。
「なにが普通かなんて、もう忘れちゃったな」
ふたつの錆色は、焦点が定まっていない。
歩には一瞬、彼が機械仕掛けのなにかのように見えた。
「芸能界入って、俺が一番最初に手放したものがそれだから」
ぼんやりとしていたのは束の間のことで、やがて目に力が戻った。
しかし、その錆色はどこか寂しげに沈んでいるのだった。
彼の、無造作にまとめた髪が風に乗ってなびき、そのほの甘い微香に、胸が痛んだ。
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