798人が本棚に入れています
本棚に追加
勤務中、周はレジのまわりをウロウロしたり、隙あれば話しかけてきたりし、そのたびに神楽坂に連れ戻されていた。
あまり神楽坂の手を焼かせるわけにもいかないので、歩は8時になると早々に上がって着替えを済ませた。
そして——遅れてやってきた微かな興奮を鎮めるために、口から息を吐きながら、心のなかで唱えたのだった。
期待してはいけない。
神楽坂が来てくれたのは、周がいたからだ。周が自分に会いたがったから彼は渋々応じたのであって、そうでなければ————
先ほどのよそよそしい神楽坂の態度が頭をよぎる度に、こめかみあたりから不安定な感情が流れ込んでくるようだった。
店内に戻ると、ふたりが座っていた席には、周しか見当たらなかった。
「あれ? パパは?」
周はアップルパイをかじりながら、窓の外を指差した。
神楽坂は窓ガラスの向こうでスマートフォンを耳にあてながらうろうろと歩き回っている。
時折、その表情が怪訝になったり、額に手を当てたりするのを見るかぎり、電話の内容はそう愉快なものでもないらしい。
仕事関係のトラブルだろうか。
席に座り、周の口端についたパイのかけらを指で拭ってやると、彼は恥ずかしそうに手を振り払った。
「もう小学生なんだから、自分でできるよ」
言って、紙ナプキンで強引に口を拭き取る。
「ごめんごめん」
その華奢な骨格と涼し気な目元をまじまじと見てみても、やはり神楽坂には似ていない。
「周はさ、お母さん似なの?」
なにげなく問うと、周の顔が大袈裟なくらいに歪んだ。
そして、口を窄ませて、拒絶を込めた濁音を吐き出す。
「げー、あんなガミガミ妖怪に似てるなんて言われたら、俺はおしまいだー」
「いや、似てるの?って聞いただけだよ」
彼は机に突っ伏し、派手に足をばたつかせた。
聞いたのは顔立ちのことなのに、と言おうとするものの、まともな会話が成立しそうもないのでやめておいた。
「……電話、たぶんママからだよ」
「なんでわかるの?」
「パパがああやって俺から離れて電話してるときはいつもそう」
ふと、表情が曇った。
周はパイの入っていた紙容器を潰すと、いたずらに折りたたんではまた広げながら、窓の外を見つめている。
落ち着いているときの彼は打って変わって、大人びて見えた。
「俺のせいなんだ。今日、学童で友達とケンカしたから……それでたぶん、ママに怒られてる」
「なんでパパが怒られてるの?」
「わからない。でもママは、俺がなんかするといつもパパに怒るから……」
その理屈がよくわからないが、よその家庭にはそれぞれの事情やルールがあるのだろう。
しかし、周の寂しそうな顔を見ていたら、なんだかいたたまれなくなって、その小さな背中をそっとさすった。
最初のコメントを投稿しよう!