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「……タロを通して返してもらえば」
「ばか、お前ふざけんなよ」
「冗談だよ」
タロとは、三月の思い人のことだ。
その犬のような呼び名はもちろん三月だけが使っている愛称で、本名を末永謙太郎という。
三月が初めて自ら恋い焦がれた相手が、子供のころから付き合いのある父親の親友で35歳、それも同性だということを知った時は、驚かなかったといえば嘘になるが、それでもそれほどの衝撃はなかった。
なぜだろう。
むしろ、しっくりとくるこの感覚は———
「アユが返してきてよ」
顔を上げると、三月はにやりと笑いながら見上げてきた。
サンドイッチの切れっ端をほとんど噛まずに飲み下したせいで、胸のあたりに突っかかりを感じた。
「は? なんでだよ」
「アユが行くほうが喜びそうじゃん」
言われて、不覚にも唇を結んでしまった。その反応を見た三月の口角が不自然に歪む。
咳払いをしてごまかしてはみるが、ますます彼を愉快にさせるだけで、何の意味もなかった。
「いーじゃん。アイス奢るから」
「アイスより交通費のほうが高くつくだろ」
三月は頰をかき「それもそうだな」と唸った。
「じゃあもう、おっさんの会社に送っちゃおっかな。名刺はもらったし」
歩は何も言わなかった。
それが挑発だとわかっていたし、これ以上、彼を愉しませてやる義理もなかった。
歩はウェットシートを2枚出し、一枚目で油のついた指先を、もう一枚でスマートフォンの画面を拭いてから、何食わぬ顔で画面をタップした。
友人からのメッセージに返信する内容を考えてみるものの、雑念が押し寄せて思考の余力を奪ってしまった。
もう一度、神楽坂に会う。
会える。
でも、変に思われないだろうか。
意識していると————
「ねー、封筒持ってない?」
その時、たまたま机を横切った女子に三月が声をかけた。
彼女は、突然三月に話しかけられたことに身構えたが、だいぶ間が空いてから「部費を入れる茶封筒ならある」と答えた。
「じゃあ1枚ちょーだい。封筒ってハガキ大ぐらいのサイズ? ハンカチぐらいなら入るよね」
ハンカチという単語を拾い、歩は思わずスマートフォンを机に置いて顔を上げた。
それを見た三月は「ほらね」と言わんばかりに、にたにたと笑ったのだった。
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