激と静の波間に 02

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またふたたび、沈黙が続いた。 歩はその沈黙を、時間をかけて咀嚼した。そしてそれが先ほどとは異なるものだと知った時、自分の言ったことは間違いではなかったのだと思った。 彼が唇を開いたのは、備え付けの時計が夜10時を指したときだった。 「前の奥さんとはね、結婚前に——本当は一度別れてたの。別れてたのは3カ月くらいだったかな。よりを戻してしばらくした後、周ができてすぐに結婚してね。順調だった」 だった、という部分に力が入り、それが過去形のものだということが強調された。 歩は、その手を取りたくてたまらなかったが、せっかくの彼の決意が鈍ることを恐れて、堪えたまま頷いた。 「周が2歳になったころ、簡単な手術をしたんだ。乳児検診で、舌小帯——舌の裏にある筋みたいなやつが短いって言われてね。生命に関わるようなものじゃないけど、将来、滑舌が悪くなるかもしれないって言われたから、切っておいたほうがいいだろうって。手術前に血液検査をしたら——彼はAB型だった。いやそんなはずないだろうって思った。だって俺はO型だから」 歩はゆっくり瞬きをした。 微かにもれていた気配が、輪郭を帯びて近づいてくるのがわかった。 「奥さんには別れてた3カ月の間に付き合ってた男がいて、俺とよりが戻ってしばらくは、切れずにいたらしい。それについて責めるつもりはないんだ。長い話し合いをして、彼女に騙す気がなかったことは理解してたし、俺だって彼女と付き合ってるときは酷いこともしたから。でも——周はさ……」 声が詰まったとき、歩はたまらずにその手を取った。 彼の手は、眠たい子どものように熱かった。 神楽坂は嗚咽をどうにか飲み込んで、続けた。 「周は俺の子どもだよ。それは変わらないし、生きがいだ。彼のためなら俺はなんでもしてやれる。でも、ふっと考えると、涙が出てくるんだ。彼と自分に血の繋がりがないことに……。くだらないよね。母親とはどんなにそりが合わなくてもつなぐものがあるのに、俺にはない。いつか彼が俺を必要としなくなったら、この関係ももう終わりなのかなって——。こんなの、周にも申し訳ない。本当に小さい男だよね」 手を引くと、彼の体は簡単にこちらに傾いた。 ぎこちなく抱き寄せると、彼は大人しく歩の体に収まった。 そして、肩は生暖かい涙で湿った。 「周が恭ちゃんを必要としなくなるはずがないじゃん……」 さんざ迷ってようやく出てきたのは、短くてありきたりな言葉だった。 彼の孤独に、胸が震えてどうしようもなかった。 ふたりを茶化すように、時折、葉がぴたぴたと音を立ててガラスにぶつかっては、また吹き飛ばされていった。
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