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そのとき、神楽坂が微かに動いた。
「……ごめん。寝ちゃってた」
彼は慌てたように体を起こしたので、歩は首を左右に振りながら、スマートフォンをポケットにしまった。
「疲れてる?」
「大丈夫」
ふやけたような笑顔があまりにも無防備で、歩はシートに投げっぱなしになったままの彼の手に、そっと自らの手を重ねた。
「歩は……いい子だよね」
「えー?」
照れ臭くてふざけた声を出しながら惚けてみたものの、彼は一点を見つめながら、なにかをゆっくりと思い返すように続けた。
「色々なことに聡い、人の気持ちがわかる優しい子。素敵なご両親に、大切に育てられたんだね」
神楽坂の口調は子どもを褒めるときのようで、素直に喜べない。それにどこか他人事のように響いた。
不安に駆られて、歩は重ねた手を握りしめた。
「恭ちゃんが話してくれて、俺は嬉しかったよ」
「うん」
手を握っていても、やはり彼は遠いところにいるようだった。
寝入っているときはあれほど身近に感じた彼の意識はまた、窓の外の闇に溶けて見えなくなってしまった。
歩は今日初めて、神楽坂を真っ直ぐに見つめた。
あまりに必死だったのだろう。
彼もまた歩を見下ろしてから、困ったように笑った後、空いた手をのばしてきた。
大きな手のひらは、期待していた場所ではなく——頭頂部に落ちてきて、優しく撫でまわされた。
そして、その後にゆっくりと、舌で味わうようにしながらこう言ったのだった。
「俺は、歩みたいな友達をもてて幸せだよ。本当にありがとう」
一切の繕いを脱ぎ捨てた彼の、穏やかな一言。
それはたぶん、まぎれもない本音だった。
彼からの感謝は、車内で過ごしたこの数時間で歩が温めていた感情に、小さな亀裂を走らせた。
歩は口を固く結び、全身に力を入れて微笑み返した。気を抜いたら、そこからあらゆるものが溢れ出しそうだったのだ。
———車が発進し、自宅前で降ろされたのは、それからわずか10分後のことだった。
車が見えなくなるまで手を振ると、歩はその場に崩れるようにして蹲み込んだ。
冷たい息をいっぱいに吸い込むが、痛みは麻痺するどころか、血がめぐって強くなっていくようだった。
やっぱり、本当の本当に——自分は振られてしまった。
先ほど感じた一瞬の幸福ののちに落ちてきたのは、もったりと重い、実質を伴う喪失だった。
蹲み込んだまま、歩は声を震わせて泣いた。
彼の孤独と、自身の痛みが解けあった、何とも複雑な悲しみを、どうすればいいのかわからなかった。
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