激と静の波間に 03

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そのとき、神楽坂が微かに動いた。 「……ごめん。寝ちゃってた」 彼は慌てたように体を起こしたので、歩は首を左右に振りながら、スマートフォンをポケットにしまった。 「疲れてる?」 「大丈夫」 ふやけたような笑顔があまりにも無防備で、歩はシートに投げっぱなしになったままの彼の手に、そっと自らの手を重ねた。 「歩は……いい子だよね」 「えー?」 照れ臭くてふざけた声を出しながら惚けてみたものの、彼は一点を見つめながら、なにかをゆっくりと思い返すように続けた。 「色々なことに聡い、人の気持ちがわかる優しい子。素敵なご両親に、大切に育てられたんだね」 神楽坂の口調は子どもを褒めるときのようで、素直に喜べない。それにどこか他人事のように響いた。 不安に駆られて、歩は重ねた手を握りしめた。 「恭ちゃんが話してくれて、俺は嬉しかったよ」 「うん」 手を握っていても、やはり彼は遠いところにいるようだった。 寝入っているときはあれほど身近に感じた彼の意識はまた、窓の外の闇に溶けて見えなくなってしまった。 歩は今日初めて、神楽坂を真っ直ぐに見つめた。 あまりに必死だったのだろう。 彼もまた歩を見下ろしてから、困ったように笑った後、空いた手をのばしてきた。 大きな手のひらは、期待していた場所ではなく——頭頂部に落ちてきて、優しく撫でまわされた。 そして、その後にゆっくりと、舌で味わうようにしながらこう言ったのだった。 「俺は、歩みたいな友達をもてて幸せだよ。本当にありがとう」 一切の繕いを脱ぎ捨てた彼の、穏やかな一言。 それはたぶん、まぎれもない本音だった。 彼からの感謝は、車内で過ごしたこの数時間で歩が温めていた感情に、小さな亀裂を走らせた。 歩は口を固く結び、全身に力を入れて微笑み返した。気を抜いたら、そこからあらゆるものが溢れ出しそうだったのだ。 ———車が発進し、自宅前で降ろされたのは、それからわずか10分後のことだった。 車が見えなくなるまで手を振ると、歩はその場に崩れるようにして蹲み込んだ。 冷たい息をいっぱいに吸い込むが、痛みは麻痺するどころか、血がめぐって強くなっていくようだった。 やっぱり、本当の本当に——自分は振られてしまった。 先ほど感じた一瞬の幸福ののちに落ちてきたのは、もったりと重い、実質を伴う喪失だった。 蹲み込んだまま、歩は声を震わせて泣いた。 彼の孤独と、自身の痛みが解けあった、何とも複雑な悲しみを、どうすればいいのかわからなかった。
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