TOKYO NIGHT 01

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「三月ー、お待たせー」 ドアに指を引っ掛け、湊が顔を覗かせた。 目が合ったので手を振ると、彼もまた振り返してきた。 「さー、今日もスパルタ指導行ってくるか」 「そんなスパルタなの?」 「そー。自尊心がぶっ壊される、メンタル的なスパルタね」 三月は立ち上がり、鞄を背中に引っ掛けた。 たしかに、あの本多と付き合うのは大変だろう。そういう意味では、彼にとって湊の存在はありがたいのだろうし、支え合ううちに自然と親しくなるのもわかる。 「普通の受験対策とは違うから——大変だよね」 なにげなく言うと、三月はふっと遠くを見て笑った。 「なにが普通かなんて、もう忘れちゃったな」 「……はい?」 「美大目指して、俺が一番最初に手放したものがそれだから」 かつて、どこかで聞いたことのある言葉だった。 彼は澄ました声で言ったが、口がムズムズするとばかりに、その語尾が震えている。芝居じみたその台詞に、歩は馬鹿馬鹿しさを覚えながらも——堪えきれずに吹き出してしまった。 「いちいちネタにすんなし。はーもー、お前に話さなきゃよかったわ」 「一度使ってみたかったんだよ!」 ——たしかにあの一言を呟いた時の玄は、まるで映画のワンシーンから飛び出してきたみたいだった。茶化したりする隙はないぐらいに、歩の意識を鷲掴んだのだった。 捉え所のない、蜃気楼ばかりが浮かび上がる砂地のような彼のひっそりとした深淵を、そのなかに見出したような気さえした。 「お前さ、最近、俺のこといちいちネタにしすぎだから」 「拗ねんなよ」 「いいよもう。湊と仲良くしてこいよ」 手のひらを振って追い払う動作をすると、彼はにニヤニヤしながら覗き込んできた。 「あーなに、湊とばっか仲良くしてるからヤキモチやいちゃった感じ?」 こうなると彼の思う壺だ。なるべく刺激しないよう、抑揚をつけずに喋りながら、あしらうしかない。 「ほら、待たせてんだろ。早く行けよ」 「また今度、ふたりっきりで遊んであげるからさ」 ふたりっきりという部分をやたらと強調しながら三月が頭を撫でてきた時——湊と目が合った。 その穏やかな視線がなぜか気詰まりで、歩はあわてて彼の手を解いた。 三月はやはりニヤニヤしながら何度か振り返り、やがて廊下へと出て行ってしまった。 ——嫉妬。もしかしたら、多少はあるのかもしれない。 歩は三月の絵を見たことがない。なぜか恥ずかしがって見せてはくれないし、見たところで彼の望むような褒め言葉など出てこないだろう。 だが、湊は知っている。こちらが知ることのできない三月の側面を共有し、意見も言える。 歩はそのまま机に突っ伏して、ほのかな暗さに安息を求めた。 ——いや、結局のところふたりが羨ましいのだろう。彼らの前進が眩く、気後れのようなものを感じるのだ。 かたや自分は、進路はおろか、ひとりの人間にとらわれて、何にも身が入らない。せっかちで飽き性のせいか、踏み止まるのは初めてで、こんな風に時間をかけるのがひどくいけないことのように思えた。 前に、進めるのだろうか。 時間が解決してくれるとはいうが、時間が経つのを待つことも、今はこわい。 歩は顔を上げ、時計を見た。 秒針は盤を滑るようにして動き続けている。それを見ていたらわけもなく焦って、立ち上がった。
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