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「もしもし」
スマートフォンから、小さく声が漏れてくる。
切ってしまおうか躊躇し、指先が震えた。
「歩」
名を呼ばれた瞬間、あらゆるものが溶かされていった。
彼に名を呼ばれるのが好きだ。低めの、落ち着いたトーンで発せられる「歩」は、誰から呼ばれる「歩」よりも深くまで浸透してきた。
息を吐いて、スマートフォンを耳にあてる。
こちらの気配を近くに感じ取ったのか、歩の言葉を待たずに、神楽坂は発した。
「明けましておめでとう。元気だった?」
「うん……。恭ちゃんは?」
「元気だよ」
簡単なやりとりを済ませてしまうと、もう言葉が続かなくなった。
会話の隙間を縫うようにして、車が背後を通り抜ける。
「今、外?」
「うん。これからちょっと出かけるから……。今、駅前」
「こんな時間からどこ行くの?」
まるで母親のような口調だった。
心配そうな声が耳に差し込まれるたびに、すっと現実に引き戻されていった。
「六本木」
「今から? なんで?」
「玄と会う。友達と飲んでるらしいんだけど、その友達がなぜか俺に会いたいんだって。理由がよくわかんないんだけど、とりあえず————」
「それ、大丈夫なの?」
詰問じみた口調に、不快感がこみ上げてくる。
盛り上がった眉間の皮膚を指で揉みほぐした。
「大丈夫って、なにが?」
「お酒飲むような店でしょ。高校生を今の時間からそんな所に呼ぶなんて、普通の大人ならしない」
「普通ってなに? それは恭ちゃんにとっての普通じゃん」
「……心配だから言ってるんだよ」
唇を噛んで、何度か言われたその言葉をすり潰した。
神楽坂からたびたびもらう「心配」という言葉ほど、無責任なものはない。それが歩にとって、どれほどの拘束力をもつかなど、この男はわかっていないのだ。
いつもそうだ。繋いでおきながら、こちらの気持ちには応えようとしない。
「恭ちゃん、中途半端なことばっか言うよね」
「なにが?」
「振られたんだよ、俺。間違えててもいいからとりあえず前に進みたいの。いつまでもこんなんじゃ、恭ちゃんを忘れられない」
神楽坂は押し黙ってしまった。
やはり、なにも言えないのだ。
「この前、玄とキスした」
神楽坂は短く「そう」とだけ言った。
そのつれない返事に心がかき乱されて、くだらない意地はいとも簡単に綻んだ。
「恭ちゃんが今ここで嫌だって言ってくれるなら行かない。玄とも会わないよ……俺——」
駆け引きと呼ぶには子供じみた、ずいぶんと必死なものだった。
歩は、半ば懇願するように、スマートフォンに頬をつけた。
こちらの温度が、少しでも伝わればいいと思ったのだ。
「俺は、歩を縛るつもりはないよ」
しかし、返ってきた言葉はやはり予想通りで——途端、落胆という集中豪雨に見舞われた。
「じゃあもう、放っておいて」
通話終了ボタンを押して、スマートフォンをポケットに落とした。
どうだっていい。どうにでもなれ。
感情の一部が死んだように眠り、不気味なほどに落ち着いていたが、冷静というわけではなかった。
電車に乗り込むと、シートに腰掛けて目をつぶった。
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