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松戸での新しい生活
松戸の新居はふるさと川崎のふるぼけた住居とは違い、どこにでもあるようないまどきの住居だった。
松戸に来てから家族四人で、いろいろ出かけることも多かった。近くにあるアスレチック場に行ったり。家の近くの広場で、野球やローラースケートをやったり。
松戸に来てから時間が経つと、ふるさと川崎の思い出は自ずと過去のものとなりつつあった。
徐々に松戸の生活に慣れ家族で楽しい毎日を過ごしていた。
幼稚園に入ってからも毎日楽しかった。友達も多かったし、彼の家は幼稚園から歩いて数分の近くにあったので毎日のように友達が遊びに来た。
彼は至って大人しい性格ではあったが、周りにはいつも自然と仲間が集まってくるような人を惹きつける一面もあった。
幼稚園のある日、彼は同じクラスの杉山と言うやんちゃな園児に、使っていた色鉛筆を取られ泣いてしまったことがあった。すると数人の周りの園児達が
「杉山、やめなよ。山田に色鉛筆返してやれよ」
「そうだ、そうだ。杉山君辞めなさいよ。山田君が可哀想じゃない」
そう言って彼を皆で守ったと言う一件もあった。
「みんなありがとう」
彼はみんなに感謝の言葉を述べた。
彼の人を惹きつけるものはどうやら幼稚園の頃から備わっていたようだ。それは彼が成人になった今でも変わらず、時として彼の身を助くものでもあった。
彼の母は優しく明るい人で、友達が遊びに来たときも、みんなとドッジボールの相手をしてあげたり、お菓子を作ってあげたりしていた。
友達には
「山田、お前のお母さんは明るくて、優しくて良いよな。うちの母ちゃんはいつも怒ってばっかりでうるさくて」
なんて言われたりもした。
夏の暑い日のいつかで、幼稚園の行事である夕涼み大会があった。園内の校庭で行なわれ、夜みんな浴衣着て参加した。みんなで盆踊りを踊ったりして、彼もすごく充実した時間を楽しんでいた。浴衣姿の女友達たちも、毎日幼稚園で会ってる感じとは違く、普段はおてんばな女の子も、そのときばかりはとてもしとやかに見え奇麗だった。浴衣姿の彼の母もとても奇麗だった。
母との思い出はまだまだある。彼は幼稚園のクラスの「よしのかなこ」ちゃんと言う女の子を好きになった。彼の母親はそんな彼に優しく恋愛アドバイスなるものもしてくれた。
「剛が好きな女の子の名前はよしのかなこちゃんって言うんだ。よしのかなこ、剛の名前はつよしだから、かなこちゃんの名前の頭につよしの名前をつければ、ほら、つよしのかなこちゃんだ」
なんてふたりで微笑ましい時間を過ごしたこともあった。
こんなこともあった。
小学校に入ると近所のお姉さん的な子(名前は良子ちゃんと言った)がいつも剛の家に迎えに来て、剛を学校に連れて行ってくれた。
「おばさん。今日も剛君と学校行ってきます」
良子ちゃんはそう言って剛の手を握った。
「お母さん、行って来ます」
彼はそう言ってお母さんに手を振り歩き始めた。
「行ってらっしゃい」
彼の母は手を振り二人を見送った。すると彼の目からは涙が溢れた。
「剛君、何泣いてんのよ」
良子ちゃんがびっくりした顔でそう言うと
「だってお母さんとお別れだから」
涙を拭いながら彼は答えた。
「何言ってんのよ。学校終わったらまたお母さんに会えるでしょ。バカだな剛君は」
良子ちゃんはそう言って笑った。
たかだか一時の別れで涙を流すくらい、彼は母のことが大好きだった。
彼と順二と母との思い出となると、夏にはよく三人で近くの市営プールに行った。いつも彼はプールで無邪気に遊び、プールサイドに残された母と順二は陽の光に照らされ寄り添っていた。
眩しいくらいの陽の光が二人を包む。その光景は今でも彼の目にはしっかり焼きついたままだ.
たくさんの母との思い出を書き連ねていきたいところだが、書き連ねるには彼が母と一緒に暮らした日々はあまりにも短か過ぎた。
彼が小学校に入ると急に母の具合が悪くなり始め、熱が出たり、食事の後、よくトイレで吐いたりしていた。
「お母さん、大丈夫」
って聞いても
「お母さんちょっと食べすぎちゃったみたい」
としか答えなかった。
病院にもちょくちょく通うようになった。
ある日、彼が学校から帰って来て、ランドセルを下ろし、テレビをつけようとすると、母親が急に、何も言わずバチッとテレビを消し、彼の腕をつかみ、彼の顔をじっと見ながらこう言った。
「剛、しっかり聞いてね。目を背けないで聞いてね」
順二はまだ幼稚園から帰って来てなかった。
彼は急なことで、何がなんだかわからなかった。
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