母の入院

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母の入院

 彼の母は、普段は優しい人だったが怒るとすごく怖かった。  母親が怖いくらい真剣な表情で語り始めるから、彼は、何故だかとっさに「怒られる」と思った。 「学校でなんか悪いことしたかな」  学校での、今日の出来事が走馬灯のように駆け巡る。  腕をつかまれ、顔を見つめられたまま、無言の状態で、どれくらいの時間がたっただろうか。彼には何分も何十分もの長い時間に感じられた。  すると突然、母の目から、涙がこぼれ落ちた。彼の腕をつかみ、顔を見つめたまま、大きな涙が、いく粒もこぼれ落ちた。  冗談かと思った。明るい母だったから、つまらない冗談で彼を困らせようとしてるんじゃないか、そう思った。 けれど、母は真剣な顔で言った。  「剛、聞いて、しっかり聞いて。お母さんね、しばらく、家には居れなくなりそうなの。お母さん、しばらく、大好きなお父さん、順二、剛と一緒に暮らすことができなくなりそうなの」  それだけ言うと、母は涙をこぼしながら、ずっと下を向いていた。  彼は、突然のことで、何のことかわからず  「お母さん、どうしたの」  真面目な顔をしてずっと泣いて目の前で顔を疼くめる母のことをただそう言って見つめることしか出来なかった。  そのとき彼は、母が、何を言ってるのか。何を伝えようとしてるのか、全くわからなかった。歳を重ね今になって、母が言いたかったことがようやくわかった。    そう母は、彼の目の前で涙を流したとき、自分が大変な病気におかされてることに気づいていたんだろう。  その日その後のことは、あまり覚えていない。    その日の夕食時は、彼と母との間でおこった出来事など、何もなかったように、父も、母も、弟の順二もみんな普通にしゃべったり、笑ったりしていた。 普通に刻まれたなんでもない時間が過ぎていった。  次の日の夕方、母は言っていたとおり入院した。 帰り際、病院の入り口の前で、母が彼と順二に手を振っていた。  「剛、順二、心配しないでね、お母さんすぐ良くなって、また家に帰るからね」  そこにはこの前流した時のような涙はなかった。母の何かを覚悟したような毅然とした表情だけが今でも印象に残っている。  これから大変な病気と闘っていく母と別れを告げて、僕ら三人は車に乗った。いつまでもいつまでも僕らに手を振っていた母が段々小さくなっていく。  母の後ろには小さな小川が流れていた。ドブ川の様な小さな小川だ。夜の薄暗いそのドブ川はいつまでも手を振る母の姿を悲しく映し出し、悲しみの演出には十分なほど薄暗く淀んで見えた。  父は、前々から母の病気のことや、その病気で入院することも知っていたんだろう。  帰りの車中の中で、僕と順二には、前から用意していたような定型文の言葉で  「お母さん、体を壊して、しばらく入院するけど、心配ないからな。すぐ戻ってくるから」 と父は繰り返し説明た。父の表情もまた数分前に見た母と同じように何かを覚悟した毅然とした表情だった。  彼と順二は何もわからず  「お母さん、早く戻ってきてほしいね」  「戻って来たら遊園地でも行きたいな」  なんて無邪気なことを言っていたような気がする。  母が入院したのは、彼が小学校一年生、七歳の時である。
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