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母が帰って来た
そんなある日、彼が小学校から帰って来ると、そこにはなんと黙って編み物をしている入院しているはずの母の姿があった。
彼は一瞬びっくりしたが、嬉しくてたまらず大声で叫んだ。
「お母さん、良くなったんだね。退院できたんだね」
大きな声で叫んだので聞こえてないはずはないのだが、彼の母は彼が叫び呼びかけた声に一切応えようともせず、ただ黙々と編み物を続けていた。
「お母さん、お帰りなさい。もうずっと一緒にいれるんだね」
彼の母は、そうたたみかけた彼の言葉にも一切応えようともせずただ黙々と編み物を続けていた。
よくみると、終始うつむいていた母の目から一筋の涙が溢れ落ちた。
彼は母の様子が変だったので、その意味がなんとなくだけどわかった。
しばらく彼と彼の母はお互い何も言葉を発せず、沈黙の時間を過ごした。
そうこうしていると、夕方には順二が帰宅した。
順二も彼とまったく同じ様な感じで、喜びを全面に出し母に話しかけた。
「お母さん、良くなったんだね。退院できたんだね」
それでも母は、順二の言葉に一切何も応えなかった。
「お母さん、お帰りなさい。もうずっと一緒にいれるんだね」
順二がそう言っても母は一切何も応えなかった。
そうこうしていると、夜には彼の父が帰宅した。
それでも母の様子は相変わらずだった。感情を持たないまるで人形の様にただ黙っていた。
「お父さん、お母さん治ったんだね。やっと退院できたんだね」
そう投げかけた彼の言葉に、父も母と同じ様に何も応えず、ただ黙って下を向いているだけだった。
「お父さん、お母さんどうしたの、また四人で一緒にいられるんだよね」
彼のとなりに座っていた順二も父に言葉を投げかけたが、父は相変わらず何も応えず、ただ黙って下を向いていた。その横で彼の母も相変わらず黙って下を向いていただけだった。
彼は薄々と何かを感じ取った。
(お母さんは病気が治ったんじゃない、病院に家族と最後の時間を過ごすことを許されてここにいるだけなんだ)
これだけ父も母も様子が変なんだから、そりゃ気づくだろう。
お母さんは最後に僕らに会いにきたのだと。
その日は久しぶりの夕食を家族四人で過ごしたが、四人ともずっと沈黙のままだった。誰ひとり言葉を発する者はいなかった。
案の定、次の日朝早く母は再び病院へと戻って行った。
彼の母は病気が良くなり退院した訳じゃなかった。自分の残された命が短いことを知り、最後に家族に会いに来たのだった。
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