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ふるさと川崎
山田 剛
彼は1973年2月25日、雪のちらつくとても寒い日に、神奈川県の川崎市に生まれた。
2800gのとても健康な男の子。
彼には父と母と、弟がいた。
父はとても真面目風、誠実風な人間で、酒、たばこ、ギャンブル等は一切やらず外面的にも眼鏡をかけ、七三分けと言う典型的な真面目なサラリーマン、そんな風な人だった。
ここで「風」という文字をあえて付け加えたのはそういう風に見えるだけであって、彼が年を重ねるごとに気付いていくのだが、それは外面的のものであり、内面は非常にふしだらで不真面目で弱い人だったからだ。
彼の母は父とは全く対照的だった。少しきつい性格ではあったけれど、教育熱心であり、人情味あふれ、正義感の強く、とても温かい人だった。
いたずらにこの場で、彼の父を悪者、母を善人と決めつけてストーリーを進めて行くことはやめておこう。
それは読者の皆さんが咀嚼し、判断してもらえば良いことであろう。
彼の弟はと言うと、非常に無口でとても大人しく、しかしながら嘘のつけない秘めたる正義感を持った人だった。
彼と弟とは会話こそ少なかったが、兄弟と言う関係が故、意思疎通されてるがためのものであり、決して仲が悪いわけではなかった。
彼と彼の両親は、彼が幼稚園に入る前まで、ずっと母方の実家である神奈川県川崎市に両親とおじいちゃん、おばあちゃん、その息子達と共に住んでいた。
彼の生まれた街川崎は、今でこそ風俗店が多いイメージだが、当時の川崎はふるさとと呼ぶにふさわしいどこか懐かしい感じの漂う街だった。
川崎駅前の歓楽街を抜ければ木造の家々が立ち並び公園に生えている樹木や、そこにある古くてさびた遊具たち。
コンクリートの道端には不似合いなイチョウの葉がたくさん散りばめられていた。そのイチョウから漂う何とも言えない香り、全てがなつかしい川崎を醸し出していた。
彼の生家は木造のトタン屋根の古ぼけた住宅。とても今で言う高級住宅と言えるような住まいではなく、たちまち台風が来れば飛んで行ってしまうのではないかと思うくらいお粗末な造りの家だった。
トイレもお粗末なもので、鍵のかかるドアがついてるわけではなく、蛇腹の開閉式のドアが設置されてるだけだった。
誰かがトイレで用を足していても知らずに入ってきて、トイレの中の住人も、トイレを訪れた訪問者も互いにびっくりするという有様であった。
彼の家の近くには川崎球場があった。彼はいつもプロ野球球団ロッテの練習を見るのが好きだった。全盛期の村田兆治選手が活躍してた頃だ。
村田選手と言えばマサカリ投法が有名で、最多勝を一度獲得し、名球界入りも果たした言わずもがなの名選手だ。
昔は練習の見学ならば無料で川﨑球場に入れた。選手までの距離はほとんど無く村田選手を間近で見られた。ロッテの村田選手の全盛期、彼が生まれ育ったひとつの時代背景である。
川崎での思い出は野球観戦だけではない。
そこにはたくさんの彼を取り囲む暖かい親戚達がいた。
彼のおじいちゃん、おばあちゃんは彼を「つよ君。つよ君」と呼び、とてもかわいがっていた。
おじいちゃんは大工をやっていた。その大工のしわくちゃなごつい手も彼をかわいがるときだけはとても優しい手に成り代わった。
彼が赤ん坊の頃、その優しい手で弄ばれた。
「いちりこ、にりこ、さんりこ、しりこ」
彼の肩口から、その優しい手は揉み解すように、背中、お尻へとマッサージしていく。最後、その手がお尻に来た時
「しりこっ」
とおじいちゃんが大きな声で締めくくり、彼への弄びは終了する。彼はそれがとても気持ち良くもくすぐったくも有り、なんとも心地よかった。
おばあちゃんは彼が生まれた頃から右足が悪くいつも杖をつきびっこを引いていた。
そんなおばあちゃんも彼をとても可愛がった。事あるごとにに甘いものを彼に買い与えていた。クリスマスでも誕生日でも無いのに、甘いものを買って来ては、彼に食べさせていた。
おばあちゃんと言えば、ショートケーキとびっこの足がとても印象に残っている。
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