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おかあさん。
たぶん、一度も呼んだことがない。
小さな子を孤児院で何人か見て来たし、一歳くらいの子どもも見たことがあるけれど、話し始めるのは二歳くらいからだ。
(一度も、呼んだことがない。懐かしさなんて感じるはずもないのに)
目の前の女性と自分。誰に聞いても、似ているというはずだ。
思ったほど、老けていない。少女のように瑞々しい瞳をしている。隣の夫への寄りかかり方が、身体を預けるという表現にふさわしく、足が不自由と聞いていた特徴が頭をかすめていく。
かつて命を落としても不思議はない怪我をした名残。
死ななかったから、今サトリと向かい合っている。
鏡で見る顔と似ているから。だからきっと、懐かしい。
他人に思えなくて、実際他人ではないのだし。
おかあさん。
呼んでみようか。呼んでみるべきか。
めまぐるしく考えて、サトリは一度目を伏せた。
息を整えて、顔を上げた。
「アキノを見てください」
まっさらな頭と胸に浮かんだ言葉をそのままに、告げた。
あたりの静寂がいやました気がしたが、構わず続けた。
「目の届くところ、手の届くところにずっといたのはアキノです。もっと大切にしてください。あなたが笑えば、きっとアキノはもっと笑えます。アキノはいつも綺麗だけど、笑うとすごく可愛いです。もっと、可愛いアキノを見てください」
アキノを。
愛してください。
言葉にする前に、涙が溢れて喉がつまった。
(さっきたくさん泣いたから。涙腺がゆるんでる。こんなときに)
言いたいことは、もっとたくさんあるのに。喉が熱くて声が出ない。
サトリは零れてしまう涙を持て余して、天を仰ぐように上を見た。
アキノ様……?
ざわめきが聞こえる。
高らかな足音が近づいてきた。
「何言ってるの。こんなときも人のことばっかり。これだけ演出したんだから、最高の再会を見せてよ」
清かでよく通る、低い声。
サトリのすぐ横に並び立って、少しだけ上からの視線をくれる。
微笑んでから、サトリの足元に目を向けた。
「もう少し踵の高い靴にしておけば良かったかな。裾で掃除してませんか? 姉上」
恐ろしく平常通りの調子で問われて、サトリはつられたように下を見る。ひくっとしゃくりあげてから、息を整えて言った。
「ぎりぎり大丈夫だと思っていたけど、さっきタキ先生に裾踏まれたから引きずっているみたい」
はあ、とため息をもらして、麗しの王子はタキに目を向けた。
「近づきすぎなんだと思う。接近禁止。姉上に五歩以上の間隔で近寄らないで。会話するときは僕に許可を取ってからにしようか」
「わたしが話しかける分にはいいんですか」
少しだけ心配になって、サトリは思わず口を挟んでしまった。
アキノは片方の眉をぐっと寄せて曰く言い難い表情をした。
それから、緩く首を振り、拒絶めいた仕草をしたものの、思い出したように正面に向き直った。
おとなしくやりとりを見守っていた王妃に向かって、再び声をかける。
「お探しの『女の子』を見つけてきました。……母上? 笑っていただけますか?」
探るようなひそやかな問いかけに対して、少女のような王妃は目元にゆっくりと笑みを滲ませた。
サトリの背に腕を回し、頭に頭をこつんとぶつけてアキノは低い声で言った。
「誤解しないでね。僕はずっと大切にされてきた。性格いいの、知ってるでしょ。僕が今母上に見てもらいたいのは姉上だけだよ。二人が再会するところが見たかった」
一度おさまったと思っていた涙がまた溢れて止まらなくなって。
視界がぐちゃぐちゃになって、サトリは結局しゃくりあげてしまう。
「ずっとさがしていたわ、リリィ……」
子どものカタコトのようなぎこちないささやきをもらして、王妃が前のめりに進む。足の不自由さを忘れたような性急な動き。つんのめって転びかけた。腕を伸ばした王が支えた。そのまま、動きを助けながら進んでくる。
手が届く距離で、解放した。
体当たりのように飛び込んで、王妃は寄り添っていた二人を両腕に抱きしめた。今にも転びそうな王妃を、咄嗟に二人とも支えようとして腕が出た。抱きしめ返すような形になった。
涙を流すサトリと王妃を間近で見ながら、アキノが笑みをこぼした。
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