第五章 再会

9/10
29人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ
 おかあさん。  たぶん、一度も呼んだことがない。  小さな子を孤児院で何人か見て来たし、一歳くらいの子どもも見たことがあるけれど、話し始めるのは二歳くらいからだ。 (一度も、呼んだことがない。懐かしさなんて感じるはずもないのに)  目の前の女性と自分。誰に聞いても、似ているというはずだ。  思ったほど、老けていない。少女のように瑞々しい瞳をしている。隣の夫への寄りかかり方が、身体を預けるという表現にふさわしく、足が不自由と聞いていた特徴が頭をかすめていく。  かつて命を落としても不思議はない怪我をした名残。  死ななかったから、今サトリと向かい合っている。  鏡で見る顔と似ているから。だからきっと、懐かしい。  他人に思えなくて、実際他人ではないのだし。  おかあさん。  呼んでみようか。呼んでみるべきか。  めまぐるしく考えて、サトリは一度目を伏せた。  息を整えて、顔を上げた。 「アキノを見てください」  まっさらな頭と胸に浮かんだ言葉をそのままに、告げた。  あたりの静寂がいやました気がしたが、構わず続けた。 「目の届くところ、手の届くところにずっといたのはアキノです。もっと大切にしてください。あなたが笑えば、きっとアキノはもっと笑えます。アキノはいつも綺麗だけど、笑うとすごく可愛いです。もっと、可愛いアキノを見てください」  アキノを。  愛してください。  言葉にする前に、涙が溢れて喉がつまった。 (さっきたくさん泣いたから。涙腺がゆるんでる。こんなときに)  言いたいことは、もっとたくさんあるのに。喉が熱くて声が出ない。  サトリは零れてしまう涙を持て余して、天を仰ぐように上を見た。  アキノ様……?  ざわめきが聞こえる。  高らかな足音が近づいてきた。 「何言ってるの。こんなときも人のことばっかり。これだけ演出したんだから、最高の再会を見せてよ」  (さや)かでよく通る、低い声。  サトリのすぐ横に並び立って、少しだけ上からの視線をくれる。  微笑んでから、サトリの足元に目を向けた。 「もう少し踵の高い靴にしておけば良かったかな。裾で掃除してませんか? 姉上」  恐ろしく平常通りの調子で問われて、サトリはつられたように下を見る。ひくっとしゃくりあげてから、息を整えて言った。 「ぎりぎり大丈夫だと思っていたけど、さっきタキ先生に裾踏まれたから引きずっているみたい」  はあ、とため息をもらして、麗しの王子はタキに目を向けた。 「近づきすぎなんだと思う。接近禁止。姉上に五歩以上の間隔で近寄らないで。会話するときは僕に許可を取ってからにしようか」 「わたしが話しかける分にはいいんですか」  少しだけ心配になって、サトリは思わず口を挟んでしまった。  アキノは片方の眉をぐっと寄せて曰く言い難い表情をした。  それから、緩く首を振り、拒絶めいた仕草をしたものの、思い出したように正面に向き直った。  おとなしくやりとりを見守っていた王妃に向かって、再び声をかける。 「お探しの『女の子』を見つけてきました。……母上? 笑っていただけますか?」  探るようなひそやかな問いかけに対して、少女のような王妃は目元にゆっくりと笑みを滲ませた。  サトリの背に腕を回し、頭に頭をこつんとぶつけてアキノは低い声で言った。 「誤解しないでね。僕はずっと大切にされてきた。性格いいの、知ってるでしょ。僕が今母上に見てもらいたいのは姉上だけだよ。二人が再会するところが見たかった」  一度おさまったと思っていた涙がまた溢れて止まらなくなって。  視界がぐちゃぐちゃになって、サトリは結局しゃくりあげてしまう。 「ずっとさがしていたわ、リリィ……」  子どものカタコトのようなぎこちないささやきをもらして、王妃が前のめりに進む。足の不自由さを忘れたような性急な動き。つんのめって転びかけた。腕を伸ばした王が支えた。そのまま、動きを助けながら進んでくる。  手が届く距離で、解放した。  体当たりのように飛び込んで、王妃は寄り添っていた二人を両腕に抱きしめた。今にも転びそうな王妃を、咄嗟に二人とも支えようとして腕が出た。抱きしめ返すような形になった。  涙を流すサトリと王妃を間近で見ながら、アキノが笑みをこぼした。  
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!