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「おっと、いけない!こんな時間だ!後はよろしくお願いします。僕はそろそろ客人を迎えに行ってきます」  魚を鍋に入れ、一通りの調理器具を洗ったあと、紅砂は腰に巻いていたエプロンをはずした。 「いってらっしゃいませ」  出て行く若き当主のすらりとした後姿を見送って、卯月は切なげに深く溜息をついた。  思えば神谷卯月が羅遠家に来て15年が経つ。  羅遠家はその昔、この島の領主で、何百年とこの地を守ってきた古武術道の宗家だ。  卯月の母はまだ幼かった卯月と共に島にやって来てこの地で死んだ。身寄りの無い、天涯孤独の身だったらしい。  当時、羅遠の当主、紅砂の父が、神谷親子に同情し、母の墓をこの島に作って卯月を引き取ってくれた。  本来、家族以外は女人禁制と歌われる羅遠家において、当主は家族の一員として迎え入れることを許した。  今でも、そのことには感謝している。しかし、卯月にしたら、まったくの家族同然とはいかない。家族に近いが家族でない。だから、卯月は主に家の手伝いをして、羅遠家との微妙な距離を保ち、今日まで暮らしてきた。いつもどこかで、気後れしてしまう生活を窮屈に感じていたのも事実だった。  だが、それ以外は何不自由なく育ててもらって、感謝もしている。  そう思うと、のんびりと温かい海風を毎日受けながら、このまま羅遠家で生きていくのも良いと思ったこともあった。けれどもそれは、本当に幼い頃までの話だった。  紅砂が羅遠家の当主として、姿を現してから、それは良い事ではないと思い至った。  紅砂が初めて島にやってきたのは6年前だった。当時、羅遠家の当主だった羅遠綱吉に、実は隠し子が居たということで、関東からやってきたのだ。一族は皆、驚天動地の出来事であったが、島の若い娘達からは黄色い声が上がった。そして、娘達は揃って紅砂に憧れた。  島の田舎町における紅砂の容貌は、とても目立つ存在だった。透けるような白い肌と均整の取れた肉体、風に靡く栗色の美しい髪の間から現れる、色素の薄い瞳に、皆、息を呑んだ。  連日、紅砂の姿を見ようと、家の前を通り過ぎ、覗いて行く娘達も多い。そうなると、卯月は島の娘達にとって羨むべきポジションだ。  卯月を利用して紅砂に近づこうとする輩も多かった。だから、紅砂が現れたと同時に卯月の友人は急激に増えた。  しかし、紅砂は友人達が現れても、軽く挨拶をする程度で、彼女達を相手にはしなかった。  それでも紅砂は、卯月とはいつでも親しげに話をしてくれた。卯月が成長すると、次第に彼女達は紅砂と卯月の関係を疑うようになった。そして、友人は一気に減った。  高校も卒業し、特に進学も就職もしなかった卯月は、余計に島の娘達から疑いの目を向けられるようになった。  それもそうだ……。  紅砂も卯月もそれなりの年頃なのだ。  兄妹でもない、雇用関係でもない、そんな男女が広大とはいえ、一つ屋根の下で暮らしているのはおかしな話かもしれない。  卯月にもう一つ、自立を促したのは、それが理由だった。自分がいつまでもここに居ては、紅砂によい縁談話があっても、変に疑われるかもしれない。恩ある羅遠家に対して、それは避けたかった。  島から出た事のない卯月にとって、外の世界は不安に満ちていた。だが、同時に新たな生活への期待も膨らんでいた。  こうして卯月は、羅遠家での平凡で平和な生活に、終止符を打つ事にしたのだ。  
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