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必死だった私と、見捨てた私 : しあわせサンプル
情報過多だったのだろうと思う。
たとえば情報が砂のような質感のもので、それがざらざらと常に流れているのだとしたら、ひとりひとりの受容体はザルのようなものだと考える。私のザルの網目はおそらく平均より細かい。なので少しずつしか受け止められない。多すぎたり、流れが速すぎたりすると目が詰まったりキャパオーバーになってしまう。
自覚はなくとも身体は訴える。泣き虫やお漏らしや鼻詰まりは精神的なものが原因だったと思うし、小学校入学と共に毎日悩まされた頭痛もそうだったのだろう。子どもって痛みを感じる鋭さが特に強いのだろうか。あの頃の頭痛は今思うと小さな体でよく耐えていたなと思うような強い痛みだった。
何しろ、人生の初心者なので分からない事だらけだった。母や先生やクラスメートが「あなたが悪い」と言えばそれは真実となったし、私も執拗に自分を責め続けた。
「考えてごらん。どの環境でも、誰とでもトラブルになるということは**が悪いんだよ」とよく言われたものだった。私自身もその考え方が俯瞰的で理にかなっているように感じられた。
甘えた、自分贔屓な考え方はしたくはない。物事を正しく判断したい。私は悪い子で、問題だらけ。どこへ行ってもいじめられる。だから私にはきっと何かとても不快で大きな欠点があるのだろうと思ったのだけれど、それが何であるのか皆目見当がつかない。分かりさえすれば、一生懸命直すのに。それを知る為に人の心が読めたらいいのに。切実だった。
──どうやったらいい子になれるのかな。
子どもってどこまでも健気だなと思う。今はとてもそんな風に頑張れない。自分の限界も考慮に入れず、文字通り壊れるまで頑張ってしまう。虐待を受けて最終的に死んでしまう幼い子がいるけれど、そういう子も似たような思考だったのではないかと思っている。自覚のないままとことんまで自分を追い込んでしまう。
でも、頑張れたのは希望があったからなのだろう。今すごく頑張れば、とても素敵ないい人間になれるのでは、愛されるのではと思っていた。
私はいつでも姉だった。だからなのか、自分がまだ甘えてもいい小さな子どもだという意識が薄かった。私が「小さな子ども」だったとき、二歳年下の弟は常に「もっと小さな子ども」だった。比較すると、私はどの年齢でも「手のかからない大丈夫な子」に分類されることとなる。実際はまるで頼りなかったのだけれど。
どうして私はいつも漠然的に「ごめんなさい」と思っていたんだろう。その一方で時々小爆発のように「私のことを分かってよ! 」と泣いては母に当たってしまったんだろう。
これぞ私の欲しかった幸せ、というモデルケースのような思い出がある。
五歳だか六歳だかのときに、家族四人でアスレチックへ出掛けたことがある。雲梯を渡っていたとき、手が滑って一番高い位置から私はぽとりと落下してしまった。幼児だったし、下は柔らかい土だったしでちっとも痛くはなかったのだけれど、両親が顔面蒼白になってこちらへ駆けて来てくれるのが見えたら嬉しくなってしまった。
とりあえず心配してもらおうと思って大袈裟に泣いた。父が私を抱き上げてくれて、私は父にしがみついて一層泣く。物凄く贅沢なことをしている感覚があった。母も私に「どこが痛いの? どこを打ったの? 」と一心に聞いてきて、私はそのとき両親の注目の的だった。弟より自分が優先されているのが嬉しく、その日のレジャーも中止となって私のために即病院に行ってくれたのも嬉しかった。あのときの腹の底からの幸せ、あの感覚を私はもう一度味わいたいのかもしれない。
きっと、愛され気遣われたことは幾度もあったし、今訊いたとしても両親はそう言うだろう。私が気付かなかったり、甘えだったり、求めていた形でなかったり。あるいは忘れてしまっただけなのだろう。
ちょっとした事に傷付きやすくて、愛情の受容能力がひどく低いのは自覚している。
分かりにくい子とか難しい子とよく言われて、それもまた傷ついたのだけれど、まあそうだろうと自分でも思う。優しいけれど扱いの難しい繊細すぎる子。でもちょっと、あれは誰にもどうにもならなかったな。
そう、誰かを責めて恨みたいんじゃない。どうにもならないそれが、ただただ悲しくて、苦しくて寂しかった。
大人になったとき、父が「お前は不幸だったな」と言ったことがあった。実の父親から太鼓判を押される不幸な子ども認定。でも私、その言葉が何だか嬉しかった。多分父のあれは「ごめんね」という意味なのだ。
全然いいよ。まるで無かったことのようにされるより、ずっと嬉しい。
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