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王子様の秘密 8
私が洗面台の鏡の前に立ってドライヤーで髪を乾かしていると、ドアが音も無くそっと開いた。
誰かしらと思ってじっと見ていると、透さんがずいぶん下の方から顔を出す。
「どうしたんですか?」
ドライヤーを停め少し首を傾げて尋ねると、透さんは笑顔を取り繕ったように見えた。
「ちょっと忘れ物してしもたんや」
「ごめんなさい、気が付かなくて。どうぞ入ってください」
「すまんな」
するりと猫のように透さんが狭い隙間から入ってくると、すぐに背中でドアを閉める。
私は何かまずい気がした。とっさに数歩、後ずさりしてしまう。
「なるほどなー。俺はまだ警戒対象か」
透さんはニヤリと笑った。
「そんな怖がらんといて」
大股で距離を詰めた透さんが、大きな両手で私の頬を包み込んで上を向かせる。切れ長の瞳の優しい光を真正面から見たら、私はどうしたら良いのかわからなくなった。
「すごいな、みさきちゃんの力」
穏やかな微笑みが透さんの整った面に湛えられる。
「ここまでしてキスできへん」
私はきょとんとしてしまう。
「……え?」
自分でも驚くほど間抜けな声が出た。恥ずかしくて口元を隠すと、透さんがお腹を抱えて笑い出す。
「ほんま、|可愛(かわい)らしいなぁ。みさきちゃん」
笑い過ぎで目が潤んだみたいで、透さんは目尻を指先で拭う。
私は真っ赤になった顔を隠すために、唇を尖らせて頬を触ってごまかした。
「何でやろな。みさきちゃんとやったら、ずっと一緒におっても飽きへん気がするんや」
私が頬に添えていた手を透さんに剥がされ、そこに彼の手が触れる。
「……俺と」
「そこまでにしてください」
いつの間にか、腕組みをして壁に肩を預けた淳くんがいた。
私は慌てて透さんから離れる。
「淳クン、人の恋路を邪魔するんは馬に蹴られるで」
器用に目を眇めた透さんを見て淳くんは小さくため息を吐いた。
「女性の入っている浴室に乱入するよりよっぽどマシです。まだ僕以外は誰も気付いていませんから、早く戻りましょう」
淳くんの言葉に透さんは目をぱちくりとさせたけれど、すぐにいつもの不敵な笑顔になった。
私は相変わらず会話についていけていない。
「損な性分やな」
「敵に塩を送っただけですから、お気になさらないでください」
淳くんは透さんにおとぎ話の王子様のような微笑みで応える。
「ですが、またこんなことがあれば出入禁止になりますよ」
「へーい」
淳くんに促されて透さんは脱衣所から出て行こうとした。
「透さん、忘れ物……」
「おおきに。後でゆっくり探させてもらうわ」
ひらひらと笑顔で手を振って、透さんはドアを閉める。
何だったのかしら、と私は首を傾げる。
考えてもまったく見当がつかないから、まあ良いか、と私は再びドライヤーのスイッチを入れた。
††††††††
意識のない翡翠が軽々と遥に抱きかかえられている。
「ホント、あんたが敵じゃなくて良かったよ」
|紫綺(しき)がぽつりと呟いた。
月明かりの下、遥と翡翠の一騎打ちは一瞬で勝負が決まった。
遥は依頼されたことをきっちりと果たす。できるだけ傷つけずに自由を奪い、翡翠の意識を奪えるか試してほしいと言われた薬品を使用した。
「この子も、琥珀を探しに出てきたりしなければ良かったのにね」
遥は慈悲深い微笑みを浮かべて、翡翠の透き通りそうに白い額をそっと撫でる。
「……僕も仕事だから。ごめんね」
これからの翡翠の命運は、遥に翡翠を捕らえるよう依頼した者にしかわからない。彼が酷い目に合わされないように願うばかりだ。
「透が気付いてくれれば良いけど」
「あいつらバカそうだからな」
紫綺はみさきと裕翔の姿を思い浮かべていた。
「そんなことを言ってはいけないよ、紫綺。みさきちゃんの能力は侮れないし、あの眷属の少年が覚醒したときは僕でも抑えきれるかわからない。君は負けるよ」
遥にそう断言されて紫綺は不貞腐れた表情になる。
中型トラックがライトを照らしてやってくる。配送業者に偽装していた。
「ご苦労様です」
助手席から降りてきたのはそのトラックには相応しくない、絵に描いたような美しいスーツ姿のキャリアウーマンだった。
依頼主に翡翠を確保した旨を伝えたので迎えに彼女を寄越したらしい。
「彼を荷台へ」
「……かしこまりました」
遥はため息まじりに返答する。
荷台へ翡翠を連れて移動すると、吸血種を封じるために開発された手錠と、簡易のベットが置かれていた。そこに翡翠を寝かせて手錠をかける。
「……ごめんね」
優しく頭を撫でると遥は女性の元へ戻る。
「社長が礼を申していました」
彼女は遥とできるだけ距離を取っている。紫綺は無言でその様子を眺めていた。
はっきり言って、紫綺は彼女が嫌いで軽蔑していた。
「報酬は明日、口座に振り込んでおきます。失礼します」
そそくさとトラックに戻り、彼女は去っていく。
紫綺はその背に冷ややかに見ていた。そして小さくつぶやく。
「……バカな女」
「こら」
遥は美しい吸血種の少年を、少し強い調子の声で嗜める。
「理沙子さんだって、辛いんだよ」
「でも、あいつは……っ」
紫綺は遥の顔を見上げた。遥は小さな子どもを叱る母親のような表情をしていた。
それを見て何かを堪えるように、紫綺は続く言葉を飲み込んだ。全てが忌々しいという気持ちを抑えきれずにそっぽを向いて舌打ちをした。
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