恋の棘 1

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恋の棘 1

 昨日の夜、透さんは素直に淳くんの部屋に布団を敷いて寝たみたいだった。 「みさき、大丈夫だったか?」  朝、私が着替えて部屋を出て、階段のところで偶然出会った眞澄くんにそう声をかけられる。 「何のこと?」  眞澄くんの心配事がわからなくて、首を傾げて彼を見る。  私はいつも通りぐっすり眠っていたのだけど、何か心配になることがあったのだろうか。  もしかしたら眞澄くんの身に何かあったのかもしれないと心配になる。 「眞澄くん、何かあったの?」 「いや、みさきに何もなかったならそれで良い」  取り繕うように笑って眞澄くんは去って行く。何だったのかしらとぽかんと眞澄くんの背中を見つめた。  階段を下りながら、おはようと言い忘れたことに気がついた。 †††††††† 「依頼が来ました」  お昼前に誠史郎さんがみんなをリビングに集めてそう言った。  真堂家は直接の来訪、メールや手紙、祓い屋や退魔士の業界団体を通して、などいろいろな手段で除霊や浄霊などの依頼を受けている。  私たちに学校があるので依頼を受ける場所は限定している。だからそんなに仕事の数は多くない。  調査に行くと霊障や妖怪の仕業ではなく、人間の心の問題が多いそう。ちなみに私はそう言った現場にまだ行ったことがない。  だけど今日は様子が違った。 「おそらく面倒なことになる上に報酬の見込めない案件です」  ため息混じりに眼鏡のブリッジに指先をかけて断言する。  私は膝に置いていた手を握ってゴクリと唾液を飲み込んだ。誠史郎さんがそんな風に言うなんて、余程のことだ。 「先日のインキュバス本人から直接の依頼です」 「それって……」  眞澄くんがとても嫌そうな顔をする。 「ええ。私たちに話があるそうですよ」  誠史郎さんも大きくため息を吐いた。だけど裕翔くんと透さんは何か楽しそう。 「じゃあ、取り憑かれているのも……」  淳くんは穏やかに苦笑する。誠史郎さんは少し渋い表情で頷いた。 「ええ。困ったものです」 「まだ諦めてなかったのか」  はあ、と眞澄くんは大きく息を吐いて長い足を組んだ。 「すぐに祓いたいぜ……」 「眞澄くん、落ち着いてください。周の流儀は守りましょう」  できるだけ穏便に解決する。悪魔や妖怪や怨霊を力尽くで追い払うのではなく、説得して退いてもらう。それがお祖父ちゃんのやり方だ。  どうしても決裂してしまった時は仕方ないけれど力押しになって、場合によっては相手を完全に消滅させてしまうこともあるけれど。 「以前行ったカラオケ店で待ち合わせしたいと指定されました。早速ですが向かいましょう」 「あれ、知らない顔だね」  店員さんに通されたのは少し大きめの部屋だった。  佐藤宗輔くんの姿をしたインキュバスはすでに中でソファーに座っていて、透さんにそう言った。  以前倒しきれなかった彼は、また力を蓄えていた。 「見習いやから、どうぞお気になさらず」  へらへらとした様子でそう言った透さんに、インキュバスは吐息まじりの気のない返事をする。 「立ち話もなんだから、みんな座ってよ。順番に歌ってみる?」  インキュバスは笑顔でタッチパネル式のリモコンを操作し始めた。 「用件は何だ?」  眞澄くんが鋭く声と視線を投げると、彼は顔を上げてにっこりと笑う。 「眞澄は気が短いなあ。みんな座ってから話すよ」  余裕たっぷりのインキュバスの態度に、眞澄くんは淳くんと誠史郎さんを振り返る。淳くんが仕方ないと小さく頷くと、少し距離を置いて対面するように座った。  誠史郎さんが1番扉の近くに座り、私はその隣に淳くんと挟まれるよう促される。 「誰もボクの隣に来てくれないね。まあいいけど。残留思念を見つけたんだ」  インキュバスは上機嫌に一度手を握る。それを開くとぼんやりとした青い人魂が彼の掌で揺らめいた。 「ボクがちょっと力を貸してあげたら、おもしろい記憶が見られたから、君たちにも教えてあげたくなってさ」  ふっとインキュバスが息を吹きかけるとそれはヒトの形になった。  精巧な人形のような姿をみるみる現していく。大きさは全長三十センチくらいだけど、はっきりと輪郭を整えたその顔に私は見覚えがあった。  どこで見たのだろうと記憶の糸を辿りながら、ふと隣に姿勢良く座る誠史郎さんの横顔を振り向く。  表面的にはそれほど変わりなく感じるけれど、誠史郎さんの様子がどこかおかしいと気が付いた。それではっきりと思い出す。  初めて誠史郎さんのお家にお邪魔した時に偶然見てしまったスケッチブックに描かれていた女性だ。  でも誠史郎さんは素知らぬふりをしているので、私も全力で平静を装う。 「みさき?」  それがむしろ淳くんには不審に見えてしまったみたいだ。  私は何でも無いよとアピールするために無言で何度も首を横に振った。 「君たちのファムファタルは隠し事が下手だね」  インキュバスはくすくすと楽しげに笑う。 「ね、誠史郎」 「貴方に呼び捨てにされることを許した覚えはありませんよ」 「良いのかな? そんなこと言って」 「脅しのつもりですか? その女性が私の恋人だった人で、私が死なせた方だと皆に告げれば満足ですか?」  雑音が響く中、誠史郎さんの聡明さを感じさせる声が迷いなく通る。  この部屋だけ空気が止まった気がした。
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