第一章 オールドグランダッドで乾杯

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第一章 オールドグランダッドで乾杯

「いたいた」  仙台の青葉通(あおばどおり)にある喫茶店「香月(かづき)」。  すらりとした長身、ワイシャツにネクタイを締めた若い男性――高野が店に入ると、視線はすぐにフロアの奥へと向いた。  いつも必ず、奥の角の席に座る客。  テーブルにはA4サイズのコピー用紙を挟んだ、コルク製のクリップボード。右手に鉛筆。消しゴムはいつも出さず。  耳にかけた髪がさらりと落ちても微動だにしない、私服姿の若い女の子―― 「ゆい」だ。  交差点に面した二階建ての建物上階にある香月は、客席側の壁のほとんどが窓。角に座るゆいは窓に囲まれ、ガラス越しにケヤキ並木の濃い緑の中にいるようだ。  ゆいもこの開けた眺めが気に入って香月に来るのだろう。クリップボードを見つめていないときは、窓の外を眺めていた。  高野は薄く笑みを浮かべると、まっすぐゆいの目の前へ進んだ。ゆいはこちらへ気付きもしない。  見つめる紙がまだ真っ白なのを確認すると、高野はゆいの右隣のテーブル席へ着いた。  この一角は小振りの四角いテーブルがいくつも並んでいて、隣との間隔はわりと狭い。  おかげでゆいの手元も良く見える。 「いらっしゃいませ」  席に着くと、新顔の若い男性店員がお()やを置いた。明るめの茶髪で、胸元の名札には「早坂」とある。 「ペペロンチーノとコーヒー。コーヒーは食後で」  高野が頼むのはいつもこれだ。  一旦戻った店員の早坂が、トレーにコーヒーを乗せてゆいのテーブルへ近づく。  お待たせしました、と穏やかに声を掛けたまでは良かった。コーヒーを置くとき、早坂が持ったソーサーの上で、カップやらスプーンやらがガチャッと派手に鳴った。  その音でゆいがはっと顔を上げる。 「申し訳ございません」 「え、あ……。ありがとうございます……」  寝起きのようなぼうっとした声に、高野はこっそり笑った。ゆいが軽く頭を左右へ振って、眉間に指を当てている。どうやら集中が途切れてしまったらしい。  だがコーヒーカップを口元へ運んでいるうちに、ゆいの目は再び「あちら」の世界を見つめ始めた。 「――やっぱり天才かな」  集中の仕方が半端ではない。  面と向かってゆいに話しかけたことはない。ためしに向かいのテーブルから真っすぐ見つめたことはあるが、このとおりの集中力だから気付かれたことはなかった。  今、隣に高野がいることも気付いていないだろう。そもそも高野の本名すらゆいは知らない。まあ、それはお互い様だが。  ゲーム好きが集まるネット上の巨大チャットルームでゆいを見つけたのは、一年ほど前だった。  高野はそこでは「TAKA」と名乗っていて、積極的に話題を提供するのではなく、さりげなく話の交通整備をしていた。  そこへ登場したハンドルネーム「ゆい」は、こういった不特定多数とネット上で会話を楽しむこと自体が初めてだったらしく、その初々しすぎる言動ですぐに高野の目についた。  ゆいは絵を描くらしく、作品を公開するための自分のサイトを持ちたいらしい。  初めはチャットルームの世話好きたちが喜々として面倒を見た。しかし知識が豊富な彼らは、悲しいかな初心者への教育係には向いていない。  ゆいはもちろん混乱し、混乱が長引けば世話好きたちにも、飽きの空気が漂ってくる。  そこで高野が腰を上げ、非公開の会話機能を使ってゆいを誘い出した。  誘った先は、無料で利用できるチャットルーム。使用者の制限をかけて、TAKAとゆいだけが使えるように設定してある。  その空間でとことんゆいの疑問に答えてやった。絵を見てもらうのが目的なら手軽に公開できるSNSを勧めたが、サイト全体もデザインしたいようで、ゆいの個人サイト開設へ至る。  ゆいはものを知らないだけで、教えてやれば覚えが早い。好きこそ物の上手なれとはよく言ったもので、立ち上げこそ手助けしたが、あとは独学でぐんぐん技を磨いていった。  それからゆいとの付き合いは一年ほど続いている。互いに本名も知らない仲だが、交わした言葉は多い。  田舎から出てきたと言っていたゆいは、そのせいかちょっと無防備な雰囲気を兼ね備えている。  ゆいは今年二十歳で、学年で言うと高野の五つ下。仙台在住の専門学校生で、CG――コンピュータグラフィックスの勉強をしている。  全部ゆいとの雑談でわかった。  個人情報がだだ漏れである。 「俺が悪いやつじゃなかったことに感謝しろよ」と時々諭すが、多分ゆいは世の中に悪人がいるとも思っていないだろう。  ちなみに住んでいる場所もあらかたわかってしまった。  サイト運営が軌道に乗ってきた頃だったか――香月で初めて、生身のゆいと出会った。  絵を描いている子がいるな、と思い、なんとなく近くへ座った。初めは二つ隣の席へ。  そのときの容姿の印象――  特別記憶に残るようなタイプではなかった。  古風か今どきかと言ったら、前者だろう。流行を追いかけるタイプには見えない。  服装は派手さのない無地のもので、落ち着いた色ばかり。スカートに見えるが、よく見ると「スカートっぽい」ものをはいている。  肩にかかる長さの髪はきれいな栗色で、恐らく地毛。白い肌に化粧っ気はなし。  清楚な雰囲気はあったが、洗練された感じではない。そのくらいの印象にすぎなかった。  しかしその印象はがらりと変わる。容姿ではなく、絵を描くときの雰囲気が、高野の記憶に鮮明に焼き付いた。  それにその絵。まだ粗削りではあるが、大化けする予感をビリビリと感じた。 ――この感じ、誰かに似ている。  そう思ったとき、もしかしたら彼女がゆいではないかと察した。  その夜遅く、ゆいがサイトで公開した絵が香月で見た絵と同じだったことから、やはりあの子がゆいなのだと確信した。  以来、わざと隣へ座っている。  わりとあからさまに見つめているのだが、絵に集中すると、ゆいはその視線にまったく気付かない。困った性質ではあるが、芸術家はこのくらいの方がいい。  隣の席から、コーヒーカップを静かに置く音。ゆいが、鉛筆を持った右手をスーッと紙の上へ持ってきた。 ――来た。  右手が滑るように紙の上を動き、「あちら」の世界を、紙の上にみるみる写し取っていく。  消しゴムを使うことが一度もないのは、頭の中に完全に世界観が出来上がっているからだ。迷いがなく集中力も高いので、一気に絵を描き上げる。  高野は、ゆいのこれを見るのが好きだった。  半眼で一心不乱に描き付ける姿は、美しいとさえ思う。神事、神業といった言葉がふさわしい。さながらゆいは、絵の巫女と言ったところか。 「お待たせしました。ペペロンチーノです」  早坂の声に、ゆいを愛でる貴重な時間を邪魔される。  ふと、妙な沈黙を感じた。フォークとスプーンを置こうとした早坂の動きが止まっていた。  視線を追うと、その先にあったのは、ゆいの描きかけの絵。  次の瞬間、トレーの上でスプーンが転がり、ガチャッと派手な金属音が鳴った。 「……失礼しました」  頬を赤らめている早坂に、高野は「いや」と薄く笑みを浮かべた。  ゆいは惑うことなく絵を描き続けている。  どうやら集中は途切れなかったらしい。  ペペロンチーノの皿が置かれ、食欲をそそるニンニクがふわりと香る。  高野は慣れた手つきでフォークに麺を絡ませ、ばくばくと食べ始めた。  ほどなく、カタン、と鉛筆を置く音がして、ゆいの手が止まった。 ――森の奥深く。糸のように細く繊細な滝がいくつも流れ落ちている空間。  滝は苔のはびこった岩肌にぶつかりながら流れ落ち、さほど深くない滝壺には、沐浴する乙女の姿。周囲の景色と乙女の姿が映り込んだ水面は、波紋で乱されている。  ああ、これは――ほしいな。  やはりゆいは、俺の「シレン」か。  真っ白だった紙には、下書きとは思えないほど完成度の高い世界が広がっていた。  ゆいの神事は終わり、意識も「こちら」へ戻ってくる。  いつものことだが、覚醒はすっきりとはいかないらしく、寝起きのようにしばらくぼんやりしている。  ふと、ゆいがあごを軽く上げた。そこに漂うにおいを捕まえるように何度か鼻呼吸を繰り返し――くるっとこちらへ顔を向けた。  高野は一瞬驚いたが、ゆいの目がまだぼんやりしていることに気付くと、ふっと笑みを漏らした。 「こんにちは」 「あ……はい……」  声も思考もぼんやりしているのがおかしくて、顔が笑みを含んで歪んでしまう。  まあいい、この様子ならきっとゆいは覚えていないだろう。高野は構わずペペロンチーノを平らげた。  食後のコーヒーが来たときには、ゆいもしっかり覚醒してコーヒーを飲み終えていた。  トートバッグに道具をしまって席を立つ。予想どおり、こちらには目もくれずに。  今日描いた絵は、夜にはネット上で見られるかもしれない。 「さて。そろそろ次のステージへ行くか」  高野は立ちのぼるコーヒーの香りを楽しんでから、カップを口元へ運んだ。
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