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追跡者はつぶやく
私は雰囲気を変えるため、レコ―ド棚の前に移動してBGMを見繕い始めた。ジャケットをあらためていた私の手を止めたのは、「マスター、会計」という押し殺した声だった。
振り向くといつの間にかロングコートの男性がレジの前に立ち、感情のない目をこちらに向けていた。
「あ、すみません」
男性はカードで支払いを済ませると、幽霊のような動きでドアの外に姿を消した。
私がカウンターに戻り瓶を磨いていると、いったん奥へ引っ込んだ蘭奈がギターケースを抱えてフロアに戻ってきた。
「それじゃ、おやすみなさい」
蘭奈がドアの外に消えてしばらくすると、突然、言いようのない嫌な予感が私を襲った。
「すみません、ちょっと出てきます」
私は常連客にそう言い置いてドアの方へと向かった。店の外に出た私は足を止めると、廊下の窓から外を見た。
ちょうど窓の下がビルの出入り口になっており、蘭奈と思しき小柄な人影が往来に出るところが見えた。
――私の思い過ごしだろうか。
私が視界から蘭奈が消えたのを確かめ、窓から離れようとしたその時だった。ロングコートの男性が右手から現れたかと思うと、蘭奈が去った方に向かって歩き始めたのだった。
私は店内に引き返すと、常連客に「すみません、うっかり氷をきらしてしまって、少しの間、店を開けても構いませんか」と頭を下げた。
商売人が客に留守番をさせるなどもってのほかだが、気心の知れた常連客は「ああいいよ。ごゆっくり」とあっさり快諾した。
バーテンの服装に上着を引っ掛けただけの私は、階段を駆け降りると往来に飛びだした。
見える範囲に二人の姿はなく、私は地下鉄の駅が比較的近いことからまっすぐ最寄りの入り口を目指した。角を二つ曲がった所で足を止め、前方に目を凝らすと遠くに駅の入り口と、女性の後ろ姿が見えた。
――よかった、無事だった。
私はほっと胸をなでおろすと入り口に向かってゆく背中をぼんやりと眺めた。まだいくらか人通りのある時間だけに、あの奇妙な客も後をつけるのをあきらめたのだろう。そう思いかけた時だった。入り口のシャッターがいきなり音を立てて閉まり始め、蘭奈と思しき人物がその場に棒立ちになるのが見えた。
――どういうことだ?
私が思わず駆けだそうとした瞬間、物陰からあの黒衣の客が姿を現した。
「こんばんは、お嬢さん」
いきなり声を掛けられた蘭奈がぎょっとしたように振り返り、黒衣の人物が愉快そうに肩を揺するのが見えた。
「……誰?」
「不都合な過去を消して回っている者です」
「不都合な過去……?」
怪人物のきしむような声は、離れているにもかかわらず私の耳にまで突き刺さってきた。
「そうです。あなたが今、ルポを書くために追っている解決済みの事件、それはいたずらに蒸し返してはならない出来事なのです」
人物がゆっくりと蘭奈に迫り、蘭奈はシャッターの方に後ずさりながら「こないで」と威嚇の声を上げた。
「痛くはありません。……別の人間になるだけです」
人物はそう言うと、狙いを定めるように右手を蘭奈に向かって伸ばした。
「――やめろっ」
私が駆けよって叫ぶと、人物が動きを止めてゆっくりと振り向いた。その仮面のような顔を見た瞬間、私は身体の奥で久しく使われていなかった警報が鳴り響くのを意識した。
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