夜の訪問者

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夜の訪問者

   その娘が私の前に現れたのは、洗浄が終わって渇いたアナログレコードを棚に戻した直後だった。 「こんばんは」  狭い入り口をくぐって顔を出したのは、小顔で細身の若い女性だった。 「あの、すみませんがまだ準備中なんです」  私がやんわりと断ると、女性は「いえ、お酒じゃなくて……」と小さく首を振った。 「ここ、常連じゃなくても歌わせてもらるんですか?」  女性が顔を上げてまっすぐこちらを見た瞬間、私の中で小さな火花が散った。  ――似ている。  私は波立った胸の内を悟られぬよう、表情を変えることなく「ステージが空いている時なら、誰でも歌えますよ」と答えた。  フロアの奥にある畳二畳ほどの小さなステージでは、常連客でもあるロックバンドが週に一、二度演奏を披露していた。 「……で、何をお演りになられるんです?」 「以前はロックバンドをやっていたんですけど、今は仲間がいないのでアコギの弾き語りをさせてもらえたら……」  女性はそう言うと、ギターケースのネック部分を私に見せた。 「構いませんよ。アコギならセッティングの手間も少ないし、何なら今夜でも可能です」 「本当ですか?」  女性の顔がぱっと輝くのを見て、私はなぜか切ない気分になった。これほど屈託のない笑顔を見たのは、いつ以来だろうか。 「お名前は?」 「水上蘭奈です。大学に通いながらライターをしています」  私は頬を上気させている女性を眩しく見つめながら、胸の奥に生じた正体不明の違和感を持て余していた。                  ※  私の名前は月上怜人。場末のライブバー『コーネル』で雇われマスターをしている三十男だ。  ある理由があって過去について語ることには消極的だが、現在の暮らしにはそこそこ納得している。バーのマスターとは別に営んでいる副業が充実していることもあるだろう。  開店前に店を訪れた若い女性――水上蘭奈はセッティングを終えるとアコースティックギターを抱えて自前らしいブルースナンバーを歌い始めた。  粗削りな音だが、外見にそぐわぬスモ―キーな声がブルースハープの響きと相まって独特の哀感を漂わせていた。 「初めて見る子だけど、いいね。……マスターの知り合い?」  常連客の一人がショットグラスを傾けながら私に囁きかけた。私は「飛び込みです。今日、初めて会いました」とわざと素っ気ない答えを返した。 「ふうん……たまにはブルースもいいねえ。しかしあんな若い子が、どこでこの店を知ったんだろうね」  常連の疑問ももっともだった。『コーネル』の客層は三十代以上の音楽ファンが多く、若い子が歌いに来る店とは言い難い。仮に常連客の誰かから噂を聞きこんだのだとしても、下見もせずに乗り込んでくるとは相当、神経が図太くできていなければできない芸当だ。 「ありがとうございました。お店の雰囲気に合わなかったかもしれませんが、よかったらまた歌わせてください」  蘭奈がまばらな客にぺこりと一礼すると、温かい拍手が起こった。 「よかったよ、お嬢さん」  恥ずかしそうに会釈を返す蘭奈に数名の客が笑顔を向ける中、私は隅の席でグラスをかたむけている一人の男性客にふと、目を留めた。  男性客は黒いロングコートを脱ぎもせず、目線だけを動かして蘭奈の動きを追っていた。  ――なんだろう、この不穏な感じは。  私は蘭奈に向けて放たれている好意的とは言い難い眼差しに、不気味な物を覚えた。
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