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プリンは甘くて苦い
「あの子はね、産まれてから一度も泣いたことがないのだよ」
「え、嘘だ――あ、すみません」
「いやいや構わんよ。それに嘘だし」
「嘘なんですか」
「うん」
にこにこと旦那様は楽しそうに微笑む。
「からかわないでくださいよ」
僕は息を吐いた。
でも、あのお嬢様なら本当に泣いたことがないのかも、なんて思ってしまった。
旦那様はコーヒーを飲みながら目を細めて、
「すまないね、つい君のことはからかいたくなってしまうんだ。――もちろん、あの子は誕生した瞬間とか、ほんの小さい頃は他の子どもと同じように泣いていたよ。でも物心ついた頃からはめっきり笑わなくなってしまってね。まあ、クールなあの子も大好きではあるのだが」
ふうと息を吐いて、昔の想い出を懐かしむように空を見つめる。
「本当にいつも無表情だから、笑わせたり、泣かせたりしたくてね。お笑いの劇場や、泣けると評判の映画、怖すぎて心臓発作で死人も出たとかいうお化け屋敷に連れていったときもあるのだけど、それでもまったく表情が崩れなくて」
「それは――」
迷惑な話だ。お嬢様も大変だっただろう。
「ああ、それでも。一度だけ泣いたことがあるのだよ。プリンが食べたかったのにって」
「は? プリン?」
「そう。プリン」
旦那様は笑ってうなずくと、「さて仕事だ」とパソコンに視線を注ぐ。そこからは僕がなにを話しかけようと一切反応がなかった。こういうマイペースなところは旦那様とお嬢様、そっくりだ。
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