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どんなに完成された料理でも、二時間も経てば寿命を迎えてしまう。じっくりワインで煮込んだ豚肉は皿の上で硬くなり、ポタージュは薄らと膜を張り、サラダのレタスも力なく萎びている。
そして、スマホは沈黙したまま。
変わらないものをじっと眺めるのにも飽きてしまって、私はテーブルに突っ伏した。不思議と食欲は湧いてこない。虚しさでお腹がいっぱいである。
私がバカなんだろうか。今日は早く帰るよ、なんて発言を間に受けて、張り切っちゃって。
だいたい私たち、もう新婚でもないわけだし、結婚記念日なんて、いちいち祝うものじゃないのかも。そんなこともわからないなんて、やっぱり、私が、
「ただいまー」
「…………」
玄関の扉が開くと同時に聞こえた声に、私は勢いよく席を立った。足音荒く迎えに出れば、声と同じく、のんきな表情をした雄吾が、ちょうど靴を脱いでいるところだった。
「……帰るの、ちょっと、遅くない?」
「えー、あー、ごめん。ただいま」
「……おかえり」
「うん」
私のことを避けるように、横をすり抜け、ダイニングへ向かう背中。たっぷり5秒ほど遅れて、ゆっくりその後を追った。
空っぽの場所に、ふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じる。———いや、バカなのは、ぜったい私じゃない。
大きく息を吸い込む。「あのさぁ!」……しかし、私の怒声はそこで途切れた。ダイニングへ足を踏み入れた途端、目の前に白い箱が差し出されたからだ。
「じゃーん!」
「……何これ」
「オリビアのケーキだよ」
「えっ」
オリビアは、今人気のケーキ店だ。海外で修行を積んできた店主が一念発起して開いた店で、味だけではなく、写真映えする見た目から、若い世代を中心に話題を呼んでいた。
「紗世、一回食べてみたいって言ってたろ」
「そ、そうだけど……ビックリした。いきなりどうして? ここのケーキ、買うの大変だったでしょう」
「へへ、まあね、けっこう並んじゃったけど。でも、べつに大変じゃなかったよ。それに、紗世を驚かせたかったんだ。今日は特別な日だしさ」
「え」
「俺らの結婚記念日」
「……覚えてたの?」
「当たり前じゃん」
雄吾が優しい目をしてこちらを見ている。単純で現金な私は、あっさりときめいてしまった。
それが伝わったのか、雄吾は鼻を擦りながら、話を逸らすように、
「へへ、さすがに腹減っちゃった。飯食いたいな」
「あ、うん……」
私はテーブルへ視線をやる。いつもより一品も二品も多いテーブル。一瞬忘れかけていた現状を思い返す。
「あの……少し待ってて。冷めちゃってるから、ちょっと、作り直すよ」
「えっ、なんで? ふつうに温め直せばいいじゃん」
「そうだけど、味が変わっちゃうかもしれないし」
「いやいや、平気だよ。それに、紗世の料理は、なんだって美味しいって」
「……じゃあ、温め直すね」
「頼むよ」
ジャケットを脱ぐ雄吾を横目に、私はワイン煮込みの乗った皿を手に取った。レンジに入れる前に、ふと考える。これを作るの、どれくらい時間がかかったんだっけ。雄吾が行列に並んだのと、どっちのほうが長いだろうか……。
「紗世?」
振り返ると、雄吾がぎょっと目を見開いていた。
「どうしたんだよ」
「何が」
「何がって、泣いてるぞ」
泣いてるって、誰が? そう問いかけようとしたが、愚問だと気づいた。だってこの部屋には私と雄吾しかいない。泣いているのが彼でないのなら、あとは。
しゃくり上げるわけでもなく、静かに涙を流す私に、雄吾はあからさまに戸惑っている。
「え、え? 泣くほど嬉しかった? ケーキ……」
そんなふうに聞かれて、私は思わず笑ってしまった。笑って、うなずく。
「うん、嬉しい」
「そっか。じゃあ、買ってきてよかったな」
「……うん」
本当だ。私は本当に、嬉しいから泣いているんだ。
記念日を覚えていてくれたことも、私の何気ない一言を、心に留めておいてくれたことも。とても嬉しくて、抱きしめてしまいたいほど、雄吾を愛おしいと感じる。
ただ、ほんの少しだけ。
冷めきったテーブルで過ごした二時間が、私にこう思わせるだけだ。この男が憎い。今、この手でしめ殺してしまいたい———。
「ごめんね。今、ご飯用意するから」
溢れんばかりの愛情と、些細で滑稽な殺意。この涙が、後者を流しきってしまうことを願いながら、ひとまず私は笑うのだった。
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