今宵、私は女になるため口紅を塗る。

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 手取り十二万。これが事務員で働く私の給料。  人口の少ない田舎町で誰でも出来る事務作業だとしても、あまりに少なすぎる。高校卒業と同時にフリーターとして生計を立てて、最近ようやく定職に就いた私があれこれ言えるほど立派な人間じゃないけど、なんせ遊ぶお金がない。  私の頭で手っ取り早く稼ぐ方法として思いついたのは、出会い系でちょっと年上のおじさんと知り合ってお食事をしてお金をもらう、パパ活をすることだった。パパ活って表現はあくまでもマイルド。肉体関係はなくとも、それは援助交際に等しい。犯罪に巻き込まれても自己責任。一瞬躊躇ったりしたけど、お金欲しさには敵わない。  そこで今夜、ふたつ隣の大きい駅でおじさんと待ち合わせをしてパパ活をすることとなった。知り合いに見られたら嫌なのと、まだ未成年のため一応大人っぽくしておこうと仕事が終わると職場から一番近い無人駅のトイレで、化粧と着替えを済ませていくことにした。夕暮れに染まる駅の窓は、いつもより色が濃く感じ、これから始まる大人の時間を比喩しているかのようだった。  パパ活は法律的にグレーとは聞いたことあるけど、初めてなこともあり緊張しすぎて吐き気を催しそうもなったが、なんとか持ちこたえた。  トイレの個室に髪をアップにまとめて、最後に赤いリップを塗りたくり。急いで外へ出ればオレンジ色だった景色は真っ暗。あと少しで電車が来る。それに乗らなければとホームへ行こうとしたとき、駅の隅で座り込むお婆ちゃんがいた。  幽霊? ぎょっとして目を開いたけど、生きている。存在している人間。だけども、どこか様子がおかしい。雨でもないのに長靴を履いて、七月だというのに厚手のニットとズボンといった、季節に合わないちぐはぐな格好をしている。よく見れば、瞳もどこか虚ろだ。  今は亡き祖母の経験から、このお婆ちゃんは認知症で徘徊しているのではないかと予測した。本来なら放っておくか、警察に通報だけするかの二択しかなかったけど、このときの私はなぜか口が勝手に動いていた。 「お久しぶりです」  それに対してお婆ちゃんは、ゆっくりと顔をこちらへ近づけて 「あら、おはようございます」  と返した。この日が暮れて夜が始まる時間で「おはようございます」。今の一言で徘徊する老人だと確信した。電車の時間もある。警察に連絡しておこうと携帯を取り出せば、続けてお婆さんは私の着ているワンピースを指さして声をかけてきた。 「綺麗ね、綺麗ね。お出かけ?」 「あはは、うん。お出かけ」 「私も綺麗でしょスカート」  お婆ちゃんが着ているのは当然、スカートではなくズボンだ。だけど否定をせずに「綺麗だね」とだけ答えれば、 「彼とね、デイトなの」  満面の笑みでもどこか恥ずかしそうにお婆ちゃんは言った。彼というのは自分の旦那さん、お爺さんのことだろうか。それにしてもあまりにも可愛らしい、本当に彼のことが好きなんだとこちらにも伝わってくるようだった。  そんなとき、私が乗る電車がきた。だけどホームには行かないでお婆ちゃんの隣に座って話を聞いた。 「いいね。どこへ行くの?」 「海よ。景色を見ようって、お金がないから高いアクセサリーは買えないけどね、貝を拾って、瓶に入れておくのね。二人の思い出に。今日は口紅もつけたのよ」  うんうんと頷いては、私は携帯でパパ活相手に今夜行けなくなったことを連絡しては、唇に指先を当てていた。  お婆ちゃんとつけている赤い口紅の色は、私のリップと色が似ている。だけど、その塗った理由が全く違っていた。好きな人に綺麗な自分を見てほしいのと、好きでもない人に自分を偽るために見てほしいこと。なんともいえない気持ちでいっぱいになった私は、しばらくお婆ちゃんに付き合っていたら捜索していた家族が駆けつけてお礼をたくさん言われてしまった。  あれから数日が立ち、私はお婆ちゃんとはそれっきり。だけど、今も彼とのデイトを楽しんでいればいいと思っている。  本当に好きな人と出会うために、私は私らしく一人の女性として生きていこうと思う。とりあえず、今は資格をとるための猛勉強をしている。  歩こう。もう立ち止まることのないように。  終わり  
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加