夢幻の道標〜神皇帝新記 第一章の下〜

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『3』 ウルディングが助けた形になった少年は、一月あまりが経過しても、記憶を取り戻さなかった。ただ、言語などは忘れておらず、皇国や四つの王国の名などのことも覚えていたり、食事の仕方などの所作も忘れていなかった。自分自身に関する記憶だけがすっぽりと抜け落ち、名前や出身地、さらには、どのようにしてあの海岸に辿り着いたのか等は未だに思い出せないようだった。 一月が過ぎ行く中で、少年がユジ島およびマークレイ島の者でないことは、早々に明らかになった。だが、人口の多いランスオブ島出身者の可能性は残り、また皇国や王国の出身である可能性も当然あった。多くが謎に包まれたままで、その解明はほとんど進捗していなかった。 一方で、体力の回復は早かった。年齢も明らかになってはいないが、恐らくは十代後半であり、その若さをまざまざと見せつけた。 ウルディングの家で過ごすようになって三日目には床を出られるようになり、その翌日には外出もできた。十日が過ぎた頃には、ウルディング家における日々の雑事を手伝えるまでに回復。一月あまりが経過した今では、ウルディングが細々と営む畑仕事における力仕事の大半を担っていた。 外に出るようになって、少年の存在は周囲に知られ、瞬く間にユジ島全体に広まった。ただ、穏やかなユジ島の気候がそうさせるのか、物事に必要以上に頓着しない気質の島民たちは、事情に深入りすることなく、その存在を受け入れた。そこに、ウルディングの為人が寄与していることも窺えた。 「坊、昼飯にしよう」 天頂近くにある太陽が昼飯時であることを知らせており、畑の畦道に腰を下ろしながらウルディングは少年に呼びかけた。名も思い出せない少年を、いつからかウルディングは「坊」と呼んでいた。 畑の雑草刈りに勤しんでいた少年は、上げた顔を綻ばせた。空腹だったのだろう。嬉しさを隠しきれずに歩み寄る少年を見ながら、ウルディングもまた喜びに近しい感情を抱いていた。 独身を貫いたウルディングには、家族と呼べる存在は最早なかった。両親はもう何十年も前に他界し、二人いた姉も今はもう世に無い。妻や子を持つことがなかった自身の人生を後悔してはいないが、子を持つ親を疑似体験している今の居心地も悪くないと感じていた。 時期的には初夏の季節だが、年中暖かく、湿度も低いユジ島は、常に過ごしやすい。それでも、雑草刈りに懸命に取り組んだ証の汗玉が少年の顔には幾つも浮かんでいた。それを拭いもせず、握り飯を頬張る少年の横顔は美しいほどに清々しく、記憶を喪失していることなど微塵も感じさせない。このまま記憶が戻らなくても……、思わず浮かんだ思考をそこで静止させ、ウルディングは顔に微苦笑を貼り付けた。 改めて思う。一体、何者なのだろうか。 木板に乗った状態で海岸に倒れ、衣服は濡れていた。そして、ユジ島の者でないとなれば、木板に乗って海を渡ってきたことが想定される。ポリターノ諸島の他の二島からであれば、何ら不思議ではないが、それ以外、例えば皇国や王国からとなると、その距離を考えれば俄かには信じ難い。すると、ポリターノ諸島近海を航行する定期船や遊興船の事故なども想定されたが、親しい者に頼んで調べてもらったところ、そうした報告は挙がっていなかった。 畢竟、少年の素性への推察は、この辺りで行き詰まる。やはり、少年の記憶の回復を待つしかないようだ。 昼飯を食べ終えたウルディングと少年は、後刻の作業に入るため、立ち上がった。次の瞬間、ウルディングの視界が海岸の方から歩いてくる二人組を捉えた。そのうち一人は、白絹の斎服を纏っている。 遠目にもウルディングには、斎服を纏った者が何者か分かった。十官と呼ばれるランスオブ大聖堂の神官だ。ただ、斎服は祭典など公式な行事に神官が身に付けるものであり、自身へ会いにくることを公式行事と同等に扱う大聖堂、或いは十官の配慮に、少なからず皮肉も感じた。 二人は、ウルディングと少年の前まで来ると、跪いた。白絹の斎服に土が付着することを厭う素振りは見せない。 「ウルディング公、大聖堂の日々の無沙汰をお許しください」斎服が言い、跪いたまま二人は深く頭を垂れた。 ウルディングは隣の少年から、驚きを交えた視線を痛いほど感じていたが、説明は後とばかりに、これを無視すると、「特段、日々気にかけてもらう必要も無し。お主達は、今やらなくてはならぬことに従事しておれば良い」と、突き放すような口調で言った。 そんな口調もまるで意に介さず、「有難き御言葉でございます」と再び斎服が言う。やや後ろに控える若人は、この斎服の従者のようで、口を開くつもりは毛頭無いらしい。 ウルディングは、ふんと鼻を鳴らし、「さてさて、何用かのう?」と本題に切り込んだ。さらに続けて、「すまぬが、お主の名は忘れてしもうた。近頃は歳のせいか、物忘れが酷くて叶わん」と嘯いた。 「滅相もございません。もとより私の名なぞウルディング公の史の中には刻まれておりませぬでしょう。十官を拝命して、まだ一年にも届かぬ未熟者でございます故」 どうやら慇懃な態度に終始するらしい。綻びをまったく見せないところは、さすが十官に任ぜられるだけはあるようだ。 「して、何用か?」彼我の間に壁が必要と判断し、ウルディングは少し口調を尖らせた。 斎服は、「はっ。それでは申し上げます」とし、視線をウルディングから外した。視線はウルディングの隣、少年へと向けられた。 「彼でございます」 「坊か?坊がどうした?」 「失礼ながら、彼はウルディング公の戚にある者ではございませんね?」穏やかな口調だが、断定の色を多分に含んでいた。 いずれは知れることと思っていたが、一月でとは思いの外、早い。やはり、監視の目があるのだろう。 「いや、儂の孫じゃ」大真面目な顔を作って言ってみたが、「お戯れを」と、斎服にいとも容易く返された。 「戚の者でなければ、何とする?」ウルディングは先を促した。 「ウルディング公の傍に、素性の知れぬ者がいるとの報が大聖堂へ届き、それは神官大長様の耳にも達しましてございます。神官大長様は、偉大なるウルディング公の周囲に素性の知れぬ者があることに対し、心穏やかではおられぬと申されております。つきましては、大変恐縮なお願いではありますが、彼と共に大聖堂まで御足労いただき、彼の素性やこちらにいる経緯などをお聞かせいただくと共に、神官大長様の憂いを晴らしていただきたいのです」そこで一旦言葉を区切ると、これから最重要な話を告げるかの如く、深く息を吸い込み続けた。「神官大長様も、本来ならば、こちらからお伺いいたすべきところを御足労いただき、大変心苦しい、と申されておりましたが、ご承知のように非常に多忙を極められている御身。お察しいただき、神官大長様の願いをお聞き届けくださいませ」 話を聞きながら、ウルディングはやや呆れていた。要は、大聖堂が素性を把握できぬ者を隠居が抱え、何か悪巧みをしているのではないかという疑惑を晴らしに来いということだろう。 何と回りくどい。そう思った後、そういう場所であったなと妙に得心してもいた。 「わかった。明日、お伺いすると、神官大長にお伝えしろ」 ウルディングの返答に、斎服と従者は恭しく頭を垂れた。跪いたままの姿勢と同様、慇懃な態度もまた最後まで崩さなかった。
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